2011年4月10日日曜日

季語の背景(6・山笑う)-超弩級季語探究

小林夏冬


山笑う

「山笑う」は大方の俳人に好まれている季語だが、近ごろは笑う山、眠る山などと使われることが多く、各俳誌はもちろん、いろいろな人の句集にも見られることは周知の事実である。その他にも「亀鳴く」を鳴く亀としたり、「三寒四温」を三寒、四温と分割して使う類も同様で、ある著名な俳人がそれについて「本意はどこにあるのか」と嘆いていらっしゃった。そのお嘆きには全面的に同調するが、ら抜き言葉さえ国語審議会で認知されようとしている昨今を思えば、いずれは笑う山、眠る山も当然のように使われる世の中になるかも知れない。その国語審議会にしても指針があまりにもころころ変わるので、呆れ返って歴史的仮名遣いに変更された俳人もいらっしゃるのは、広く知られたことである。

それとは別に現在の俳壇で「夜の秋」は夏、「あさがほ」は牽牛子、「花」はさくらが本意として認知されている現状を見れば、笑う山、眠る山を肯定する時代が来ないとはいい切れない。なかには何となく使ったり、そのときのムードで笑う山、眠る山とする人がいるとしても、「山笑う」という一般論を笑う山として、自分の詠いたい対象を鮮明にするため、季語の本意は承知の上で、なおかつそちらを選択したい俳人もいるだろう。ホトトギス全盛のころには考えられなかったことで、そのような意識の変革、あるいはその萌芽が、俳人個々に生まれつつある時代に突入したといえないだろうか。たとえそれが季語の本意から外れ、邪道であり、季語を歪曲した使い方であるとしても、私個人から見ればそういうふうに使ったという結果論ではなく、そういうふうに使った俳人の、その意識の高低を問題にせざるを得ない。

従って私としては同じように笑う山、眠る山と使ったとしても、それを肯定する場合もあり、否定する場合もある。それは権威者だから従い、初心者だから否定するということではなく、問題はその使い方によるから、同じ人でも肯定する時もあれば否定するケースも出てくる。単なるムードや一捻りしたつもりでいる人は論外として、本意という根源的な部分をはっきり認識し、それを踏まえた上で笑う山、眠る山を選択した俳人にとって、それはぎりぎりの妥協だったといえる。だから結果としてあの人は笑う山といった、あるいは眠る山と使ったという、その表面的な部分だけを見て云々するのは、どうしてもある種の危険が伴うから、私はその結果だけで否定するつもりはない。少なくとも何の理由も必然性もなく、そのときの思いつきで「山笑う」という正当な季語を選択した人より、苦しみ、悩んだ末、妥協の産物として、季語としては邪道であることに苦渋しながらも敢えて笑う山、眠る山を選択した俳人は、遥かに意味のあることをしたといえるのではないだろうか。

そういう人に対してまで、私はひとくくりに否定するつもりはない。それは暴虎馮河の勇であっても、その暴虎馮河の勇が局面を切り開くこともある。永久に出口のない、季語の神学論争に明け暮れるくらいなら、いっそのこと神学論争の基になっているものを、力でぶち壊すほうが意味のあることではないかと思うときがある。しかし、だからといって季語本来の意味、季語の本意という観点からすれば、それはもちろん誤ったことであるし、季語とは本意である、約束事であるという立場からするならば、本意を歪曲する行為であり、手を拱いて看過できるものではない。それは十分に分かるにしても、俳句もいまや「世界のハイク」となった現状からすれば、俳句の世界、季語の世界も、そろそろ不毛の論議から脱却すべき時代となりつつあるのではないだろうか。

そのような意味から私は、季語の本意と己の意志を勘案した上で、敢えて笑う山、眠る山を選んだ俳人を支持したい。ただ、そういったからといって、直ちに誤った季語を恣意的に使い、それをよしとするものではないし、その反面、ポリシーを持って「山笑う」「山眠る」とした人は、論議の対象とする以前に尊重するのは無論のことである。問題は神学論争に終始していたのでは議論がメビウスの輪に嵌り、そこから抜け出せないのは確かなことで、季語は絶対として固定するものという考えが、そのまま現俳壇の大部分の意志であることは論を待たないとしても、俳句の世界はもはやそれだけでは律しきれない、そういう時代に立ち至りつつあることも事実だろう。

「山笑う」だけではなく、季語というものについて、私は以上のような考え方をどうしても払拭し切れないでいる。それは単に季語についてだけではなく、あらゆるもの、あらゆることについていえるのではないだろうか。そのあらゆるものの中に言葉の問題がある。言葉は生きものだから季語に限らず、言葉の持つ意味も不変のものといいながら、マクロの視点から論じた場合、時代と共に変化するのを止めることは誰にもできない。それまで朝廷の支配によって、個人の領有地を認められなかった土着の豪族が、中世以降は鎌倉幕府によって所領地を与えられ、その一所に命を懸けるという意味の「一所懸命」が、いつしか「一生懸命」となった、そのような言葉の変化は枚挙に暇ない。そういうとき「赤信号、みんなで渡れば恐くない」という、側面からの力学が働くことは否定できない。力学的な変化の場合、よいことか悪いことか、正しいか正しくないか、などという検証を働かせる余地はなく、ただ力に押されたからという、物理的な変化がすべてである。

個々にはよくない、正しくないとする声が起きても、少数の否定する個は集団のなかに飲み込まれ、全体像としては肯定する集団と把握されてしまうから、本意、正義は結局、不変ではあり得ない。それが数の論理というものであって、千年、二千年という単位で見たとき、正義は必ずしも不滅ではないし、長島茂雄は退団に際して「巨人軍は永久に不滅です」と叫んでも、それは単なるパフォーマンスに過ぎない。歳時記を金科玉条とする人にとって、季語と巨人を同列に置くなどは暴論としか受け取られないだろう。しかし、正義にしても季語にしても、永久に不滅ということはあり得ないから、この方程式は共通のものであるというところから巨人に例えたものである。

この私の考え方を否定する人も、もちろんたくさんいるだろう。しかし、ちょっと気を落ちつけて冷静に考えて欲しいと思うのは、もともと「花は梅」だったものが、遷都によって「花は桜」と変わってしまった。また「朝に咲いてその日のうちに萎み、散ってしまう美しい一日花で、草花、木花の別は問わない」ものを指して「あさがほ」といったのが本意であり、現在でいう朝顔、牽牛子はその「あさがほ」の一つだっただけなのに、中世以降は「あさがほ」といえば牽牛子を意味するようになってしまった。さらに「夜の秋」も秋の季題だったものを、虚子が夏に移した。これは権威者であろう初心者であろうと、「本意」という点では、誰であろうと手を出せない聖域なのに、人によって認めたり、認めなかったりというのではご都合主義といわれても仕方あるまい。本意からいえば誤りはどこまでいっても誤り以外の何物でもない筈なのに、俳壇の大巨人である虚子に対して少数の人が異議を唱え、それを否定しても、その声は多数のなかに紛れてしまい、現在では何の疑問もなく夏の俳句に使われ、その使用例を無条件に許容しているのが俳壇である。

それがなぜ眠る山、笑う山は認められないのか、私にはそこがどうしても分からない。本意とはそのようなものではあり得ないからだ。私が笑う山、眠る山に消極的な態度をとり、敢えて異議を差し挟まないのは、「花は桜」「あさがほ」「夜の秋」に代表される変化を受け入れている以上、笑う山、眠る山も認めざるを得ないと考えるからである。

だいたい、「花は梅」の源流にしても、そもそもは中国の考え方であって日本固有のものではない。その中国の考え方が日本に移入されたに過ぎないから、いわば借り物の思想というか、当時の日本人の心にどこまで浸透していたか疑問である。せいぜい平安朝の宮中、貴族階級、およびその周辺に限られ、一般庶民にとって梅とは他に先んじて咲き、いい匂いのする花という程度、花としては桜のほうが美しいということで、朝廷や貴族階級の梅に対する見方とは無縁、といってもよいのではないだろうか。

『和漢三才図会』で寺島良安は、「按本朝古者称花者梅也中古以来唯称花者桜也」【古えの日本で花といえば梅だった。それが中世以降、花は桜になった】といっている。一時、東京遷都論が唱えられ、いつの間にかそれも立ち消えとなったが、これだけ交通機関や運搬技術が進歩しても、首都移転となれば生易しいことではない。東京と平安朝の首都にスケールの違いはあっても、その方程式自体に変わりはない上に、当時の運搬手段はせいぜい牛車や、人が引く車しかなかったろう。人も歩いて野を越え、山を越えなければならないから、竈の灰まで人手で運ぶしかない当時にあって、梅の木などにかまけていられなかったろう。たとえ苗木であっても、そんなものの前に家財道具、生活必需品をなにより優先して運ばねばならなかった。移転して落ちつくまでの間に梅は忘れられ、移転先に咲き誇っていた吉野の桜が「花は桜」として定着したのも、当然の成りゆきだったのではないだろうか。

また、「あさがほ」は先にもちょっと触れたが、木花か草花かは問題外で、「朝咲いて夕べに散る、あるいは萎んで次の日にまた開くことはない木花、草花」を総称して「あさがほ」といった。だからこの「あさがほ」は固有名詞ではなく形容詞といえるのだが、中国では木槿を「あさがほ」の代表としていた。その考えも当時の日本に輸入され、最初は日本でも「あさがほ」の考え方や、その代表としての木槿を引き継いでいたから、万葉集では桔梗や木槿そのほかを、「あさがほ」として短歌に詠っている。そのなかには牽牛子、今の朝顔も含まれていることはいうまでもないが、それがごちゃごちゃに乱れたのは、源順がその著『和名抄』のなかで、「牽牛子 和名阿左加保」と、いろいろな「あさがほ」のなかから、牽牛子に限定した上で断定してしまったからで、それについては「朝顔」として別に書いてあるから後はそちらを参照されたい。いずれにしても「あさがほ」は源順によって牽牛子、現在の朝顔として固定され、その誤りが俳人にもすんなり受け入れられ、現在に至っている。本意からすればこの二例とも誤りだが、こういう例は受け入れても笑う山、眠る山は受け入れられないというのでは、本意というものの根底が揺らぐことになるだろう。

似たようなケースに発音の問題がある。中世はそれぞれの発音に明確な違いがあった「お」と「を」、「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」を、現代の日常生活で正確に発音したら、そのほうがおかしいと思われるだろう。俳句も何百年という間にさまざまに発展し、現在にまで推移したことを考えれば、「山笑う」を笑う山とするのは本意に外れるとか、間違っているといったら、そのほうが奇異に聞こえる時代が来ないと断言しきれないし、それは現代において「あさがほ」とは朝顔ではないといった場合、「何いってんの」といわれてしまうのと同じである。既に今でさえ地球的な規模を獲得した俳句の世界で、その季語を熱帯、寒帯の土地で考えたとき、本意だけですべて律し切れると考えたら、それはいささか単眼的な思考ではあるまいか。これは単に言葉や季語だけの問題ではない。歳時記は伝統文化そのものだから、恣意的な改変は伝統文化の破壊でしかないという論はよく分かるし、私自身もその考え方に立つものである。従ってその考え方を尊重することに吝ではないが、さりとて伝統も文化も、ましてや歳時記や季語の本意も、成住壊空の法則の枠外ではあり得ない。好んで波風を立てるものではないが、季語や伝統についても改めて考えるべき時期に来ているのではないかと思い、袋叩きに合うのを覚悟の上で、過激に火中の栗を拾った次第である。

前口上がいささか長くなった。この「山笑う」は『臥遊録』に載っているとか、郭熙の言葉だということは知られている。ところがそれを知っている人でも、自分で出典を確かめた人は少なく、ほとんどは孫引でいっているのだという。そこで、かくてはならじと原典を確かめた。各種の歳時記で「山笑う」の出典とされている『臥遊録』は、宋の呂祖謙撰『金華叢書』、および明の陶宗議編『説郛』に収められているが、この『臥遊録』はその序にも、「人心世道之文非、風月之楽山水之娯」とあるように、呂祖謙の趣味である画についての解説、随筆集である。そのなかで郭熙がこういっている、という一条が「郭熙記」に始まる約一行半の文章で、それが歳時記に引用された。では呂祖謙によって『臥遊録』に引用された郭熙の言葉は、いったいどこから出たものかといえば、山水画の画論集、山水に関する論文を集めて一本とした『王氏書画苑』で、そこに収められた郭熙の論文、『林泉高致』が出典である。いま「郭熙の論文」と書いたが、正確には郭熙のこどもの郭思が、父親の画についての教えを纏めたもので、その点については後に述べる。この『林泉高致』は俳人にとって耳新しいものであっても画家、とくに日本画家にとっては常識に過ぎない。

その『林泉高致』を見てゆくと、「郭熙記春山淡冶而如笑夏山蒼翠而如滴秋山明浄而如粧冬山惨淡而如睡」【郭熙は記している。春の山の淡冶なことは笑っているようであり、夏の山の緑はいまにも滴るばかりである。秋の山は明るく清らかに澄み切った粧いがあり、冬の山は惨淡として眠っているようである】とあり、『王氏書画苑』に収録されている『林泉高致』の一節を、呂祖謙が『臥遊録』に引用した。従って出典である『王氏書画苑』の『林泉高致』に「郭熙記」の前文はなく、「真山水之烟嵐四時不同」【まことに山水の雲雨は常に同じではない】に続いて、「春山澹冶而如笑夏山蒼翠而如滴秋山明浄而如粧冬山惨淡而如睡」と続く。この二冊の本では「淡冶」と「澹冶」の違いがあり、『臥遊録』ではたった一行半しかないが、その一行半を含む『林泉高致』「山水訓」の原文は二十字、三百六十行に及ぶ論文で、単純に四百字詰原稿用紙に直すと十八枚になる。しかし、それは漢文だから、日本文に直したら、とても四百字詰原稿用紙十八枚に納まる分量ではない。

その序文には、「山如山気如気形如形皆画之」【山は山のように、気は気のように、形は形のように、みなその本質を画く】とあるように、単なる技術論ではなく精神論、心構えに重点が置かれている論文で、「噫先子少従道家之学吐故納新本遊方外家世無画学蓋天性得之遂遊芸於此以成名」《ああ、先子少なくして道家の学に従い、故きを吐き新しきを納れ、本と方外に遊ぶ。家世画学なし、蓋し天性これを得て遂に芸を此に遊ばしめ、もって名を成せるなり》吉川弘文館、鈴木敬訳『中国絵画史』とあるが、その『林泉高致』の一節に問題の文章が出てくる。そして「山笑う」「山滴る」「山粧う」「山眠る」ばかりが喧伝されているが、ここには似たような文章で、俳句の世界には全く知られていない次の一節がある。それは「春山烟雲連綿人欣欣夏山嘉未繁陰人坦坦秋山明浄揺落人粛粛冬山昏霾翳塞人寂寂」俳人なら誰でも知っているのが「山笑う」「山滴る」「山粧う」「山眠る」なら、こちらだって「山欣ぶ」「山繁る」「山浄らか」「山寂びる」くらいのものがあってもよかろうと思うが、重複しているから省略されても仕方ないのかも知れない。俳句大会の採点で同点は清記順、先に書かれたほうが上位になり、あとは切り捨てられるのと同じ理屈だろう。

講談社『日本大歳時記』には「中国宋代のころ禅宗の画家郭熙の、『春山淡冶にして笑ふが如し』にある(尾形仂)という」の一節がある。これについてはご自身も俳人であり、俳句評論でも有名なある人が、正しくは「神宗の画家郭熙」であるべきものが、「禅宗の画家郭熙」と誤られ、孫引、孫引で伝えられ、広く流布してしまったといわれたので、それについても調べてみたが、その点はまだ確認できていない。この「神宗」の画家が、「禅宗」の画家と誤り伝えられたという説の背景には、中国に数回の仏教受難の歴史があり、そのうちの一つである唐末期の排仏運動によって、大打撃を受けた仏教が、宋帝室の保護下にあって復興し、とくに士人層で禅宗が盛んになり、名僧が輩出したという事情がある。その僧の画いたものが文人画の系譜に繋がり、のちにはそちらが山水画の主流といえるほどになったという経緯がある。

絵画界と宗教界の境目が、すべての面で曖昧であった時代で、北宗、南宗という分け方も双方に共通しており、さらに宋そのものも北宋、南宋に区分され、混乱に拍車をかけている。そして李成ほか何人かが「光禄寺丞」となり、それまでの最高位だったのに比べ、郭熙は「正議大夫従四品」となり、神宗に偏重といえるほど寵愛されたが、禅宗の僧だったのか、そうでなかったのかはいまのところ、なんともいえない。従ってこの説の真偽は定かでないが、いずれにしても郭熙の名は神宗即位後、彗星のように宋の宮廷画壇に躍り出る。十一世紀の初頭に生まれ、当時としては異例の長寿者として、ほぼ十一世紀末まで生存していたとされるが、それ以前の業績はほとんど不明で、しかも神宗の死とともにその消息は曖昧なものとなる。

これは神宗の死によるものばかりではなく、王安石に関わる政争が絡んでいたのかも知れないし、あるいは郭熙の加齢による、心身の衰えから来たものかも知れない。また、それらの要素が複雑に絡み合った結果なのかも知れないが、今では遠い霞のなかの出来事となってしまった。郭熙の若いころの仕事は知られていないにしても、生涯のアウトラインは分かっているのだから、禅宗の僧でないのであれば、そのような文章がどこかにあってもよさそうなものである。それが一向にそういう記述がないということは、郭熙の業績が最盛期を除いてほとんど分かっていないにしても、「神宗の画家郭熙」が正しい、という説にも無条件に賛同できないものがある。

講談社『日本大歳時記』にある、「中国の宋代のころの禅宗の画家郭熙」という記述は、少なくとも誤解を招くようなものではないが、それに対する小学館『日本国語大辞典』は、「中国北宗の画家」としており、こちらは読み手を大いに惑わせる。つまり、この「北宗」は禅宗での北宗か、絵画界での北宗か、そこが判然としない。文脈からいえば絵画界での北宗、つまり職業画家を意味しているようなニュアンスがあるにしても、北宗、南宗という分け方が、当時の宗教界と絵画界に共通したものだということを頭において読んだとき、職業画家と断定するのはいささか躊躇せざるを得ないのも事実である。ただ、そうはいっても、郭熙を絵画界での北宗の画家としたとき、これは職業画家を意味するから、職業画家である以上は僧ではないということになる。

だからこの記述が「禅宗の画家郭熙」とするのは間違いで、「神宗の画家郭熙」という説が正しい、という有力な論拠にはなり得る。普通であれば「北宗の画家郭熙」だけで、「神宗の画家郭熙」説のほうが正しい、と断定してよいかも知れないが、なにせこれまで長い間「禅僧の画家郭熙」とされ、それを誰も疑わなかったのだから、その常識を覆すには郭熙は禅宗の僧ではないという、確たる論拠が欲しい。それで郭熙は禅宗の僧ではないという文献を探したが、前記した通り、それは未だに見つからないという次第である。また、当時の絵画界と宗教界の混淆ぶりを考えれば、禅宗、つまり北宗の僧であり、宮廷画壇の画家でもあったということもあり得る。そのケースならば「神宗の画家郭熙」、「禅宗の画家郭熙」のどちらも正しいから、郭熙の身分にそこまでこだわるのは、ナンセンスということになるけれども、それでは単に「北宗の画家郭熙」とした小学館、『日本国語大辞典』との矛盾は解消できない。

郭熙の真筆とされるものは台湾の故宮博物館に、この項のテーマである「山笑う」を具象化した、「早春図」一点を数えるだけで、郭熙伝とされるものを含めても僅かに二、三点に過ぎないという。なぜ郭熙の現存する作品が他の画家に比べ、異例といえるまでに少ないかといえば、神宗による厚遇が仇となって神宗の死後、宮殿の殆どを飾っていた郭熙の作品は悉く廃棄され、宮廷の表具師が廃棄された郭熙の作品を、雑巾として使い捨てていたという。別に特段の理由がなくても後世に失われるものが出てくるのに、纏めて廃棄処分されたのでは絶対数が減るのは当然である。いわば神宗による贔屓の引倒しとなったわけだが、中国絵画史に占める郭熙の位置は、トップグループにあったとはいえ、他に擢んでた存在であるともいい難い。それは組織の長による引き立てによって、異例の栄転をする例がままあるのと同じで、前例のない厚遇は、後ろ盾となる者の消長に大きく左右される。郭熙が神宗の死後、急速にその光を失った背景には、そんな事情もあったろう。絵画界における北宗の画家であったとすれば、そんなことも響いていた筈である。

作品のレベルとしては等しいものであっても、当時は文人画、すなわち士大夫や文人の描くものに比べ、職業画家の作品は一段低く評価されていた。政治力学によるランクづけによって、あるいは人間が持って生まれた運によってといい換えてもよいが、それが物事の本質を歪めてしまうのは、なにも今に始まったことではない。そしてこの郭熙が北宗の画家であったということ、つまり職業画家だということは、取りも直さず郭熙を「禅宗の画家」とするのは誤りで、正しくは「神宗の画家」とするべきだ、とする新説を肯定する一つの材料にはなる。禅宗に所属する画家であれば、あくまで南宗、文人画の範疇に入るべきで、北宗の画家ではあり得ないからだ。そこに「禅宗の画家郭熙」としたら、それは誤りだという説が生まれる原因がある。

この宋の時代における絵画の南宗とは、士大夫を含む文人画を指し、北宗の職業画家とはその様式に明確な区別があるという。それならば、その道の専門家が郭熙の描いた作品を見れば、南宗、北宗いずれとも、いとも簡単に判別可能だと思うのだが、その点に関しては誰も、何もいっていないのが不思議である。菫其昌の『画禅室随筆』には、「禅家に南北二宗あり。唐のとき始めて分かる。画の南北二宗も亦唐のとき分かるるなり。但にその人の南北にあらざるのみ」とあり、禅宗での北宗、南宗とは別に絵画界でも、その画家の出身地が南人か北人かではなく、職業画家か、あるいは文人画家かという、いわゆる絵画の様式による違いを以って北宗、南宗と分けた。

自らも画をよくした風流な皇帝、徽宗の時代は中国絵画の最高峰とされており、徽宗筆の「桃鳩図」「搗練図」も故宮博物館に現存するというが、このころの禅宗を頂点とした仏教の隆盛と、科挙制度による文官の優遇は、経典や史書、科挙の受験書出版となって、印刷技術の格段の進歩を促し、官刻本だけでなく、家刻本や民間業者によって、科挙を受験する人を対象とした、受験書の出版が盛んになったという。一口に科挙といっても郷試、県試、院試などの段階があり、昨日まで食に窮する生活をしていたとしても、院試の成績優秀者は一躍、国政を担う重要なポストに就けるから、いまのわれわれには到底、想像することもできないほど権威があったもので、院試ともなると皇帝が試験官となって行い、科挙とは別に武挙といって、武術関連の登龍門もあった。

このような出版物の大量生産の背景には紙の発明がある。『事物紀原』は『後漢書』を引用して、「用樹膚麻頭及弊布漁網以為紙」【木の皮、麻、ボロ布、漁網などで紙を作った】とし、また『荊州記』も引用して、「蔡倫始以漁網作紙」【蔡倫が漁網で初めて紙を作った】といい、麻で作ったものを麻紙、木の皮で作ったものを穀紙、漁網で作ったものを網紙というとある。最初は漁網や綿やボロ布、木の繊維を混ぜ、「以故布搗作」【布を搗いて作った】ものが、次第に現在の和紙に近いものが作られるようになった。印刷の方法も最初は木や竹の板、木簡や竹簡に筆で書いていたものが木版となったが、その木版に移行する過渡期には、陶器の活字も作られた。しかし、これは製造過程の煩瑣に加え、焼入れによる変形が多く、また、その脆さのため遂に定着することなく終わったが、紙が発明される以前は竹簡や木簡に書いたものを綴り合わせ、巻いて一巻とした。それが時代の経過に従い、巻紙に書いた巻子本となる。いまでも書を一巻、二巻と数えるのは、もともと竹簡や木簡を綴り合わせて巻いたことによる。これはたいへん嵩張ったもので、大著ともなると一冊の本が、車一台ほどにもなったものが、紙の発明に続く印刷技術の進歩によって、大著といえども片手で持てるほどになり、その恩恵は今のわれわれの想像を遥かに超えるものがあったろう。

小学館『日本国語大辞典』は郭熙の項で、「中国北宗の画家。李成の山水画を学び、神宗のとき宮廷画院で指導。画論『林泉高致』はのちの水墨画に大きな影響を与えた。生没年不詳」としている。宋の宮廷画家が優遇されたことはすでに述べたが、その優遇政策によって太宗時代の菫羽から、神宗時代の郭熙に至るまで、優れた画家が続々と誕生した。それは次第に実技としての絵画に止まらず画史、画論の著述も盛んになってくる。『王氏書画苑』の目次に登場するものがその代表的なもので、十四人が絵画について執筆している。参考までに目次のタイトル、画家名を列挙すれば「山水松石格」梁元帝、「山水訣」唐王維、「山水賦」荊浩、「山水訣」李成、「林泉高致」郭熙、「山水論」郭思、「紀芸」郭思、「宣和雑評」宣和御記、「山水純全集」韓純全、「画山水訣」李澄叟、「論画山水歌」無名氏、「画品」李薦、「梅品」元華光和尚、「竹譜詳録」李衍、「墨竹記」張退公となっているが、これらの筆者はそのまま当時の画壇の権威であった。

実技だけでなく、画論においても秀でていたわけである。その『林泉高致』の序には「都総管郭思若虚纂集」の名前も見え、そんなところからも『林泉高致』は郭思の著という説が出たのだろう。しかし、この『林泉高致』は郭熙の子である郭思が、父の平生の理論や教えを纏めたものだから、著者は郭熙であり、郭思でもあるわけだ。本文の書名は「翰林待詔直長贈正議大夫郭熙淳夫撰」で、「君子之所以愛」【君子、之を愛する所以は】で始まる山水訓には、「真山水之烟嵐四時不同春山澹冶而如笑夏山蒼翠而如滴秋山明浄而如粧冬山惨淡而如睡」となっており、『王氏書画苑』では澹冶、『臥遊録』では淡冶という違いがあることは既に述べたが、この違いは呂祖謙か、または後で書写した人によって変えられたもので、古書に異本が多く出てくる過程や事情を物語っている。筆写がすべてであった時代の産物として、これもまた止むを得ないことだろう。それはなにも写本に限らず、もろもろのこと、もろもろのものを含め、人の世は万物流転するもので、東洋哲学である仏教では、宇宙の森羅万象は成住壊空のサイクルで循環すると説く。その考え方からすれば、人間の一生など吹けば飛ぶような存在、というにも及ばない微小なものでしかない。これを俗ないい方でいうならば、「あしたはあしたの風が吹く」ということになるのだろう。
南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ。