2011年5月15日日曜日

季語の背景(11・氷雨)-超弩級季語探究

小林 夏冬

氷雨    
俳人の常識からいえば氷雨とは雹のことで、その雹を俳句の上で季節的に分類すれば、夏であることはいまさら言挙げするまでもない。それが俳句における雹、氷雨の本意だが、それに対して雹を気象学的な立場から見た場合、通年のものだから、俳句の世界とは根本的な違いがある。それとは別に雹と似て非なるものに霰があり、その違いは広辞苑によれば、霰は「雪の結晶に過冷却状態の水滴が付着して凍り、白色不透明の氷の小塊となって地上に降るもの。古くは雹をも含めていう」とあり、以下に霰のつく言葉が並べられているが、「古くは雹をも含めていう」ということは、雹と霰の境界が曖昧模糊としたものであることを示している。


次に雹は「積乱雲から降ってくる氷塊。主として雷雨に伴って降り、大きさは雨粒ないし鶏卵ほど。夏季に多く、畑作物や家畜に害を与える」としている。さらに霙となると「雪がとけかけて雨まじりに降るもの」と規定しているから、ここまでなら霙は雹や霰と同列に置くことは出来ない。しかし、それに続けて霙を「氷雨」としているから、少なくとも俳句の世界とは別のスタンスを持つ広辞苑では個体の雹、霰と、半個体の霙が氷雨ということになる。こうして見てくると、俳句以外の分野に俳句の本意を適用することは出来ないから、現実に雹が降る時期は夏に多いとしても、歌詞を含めた詩や小説の場合、霰や霙を指して氷雨といっても間違いではない。

広辞苑はさらに氷雨に三項目を立てているが、その一は「大雨、甚雨。ひどく降る雨、おお雨」とある。これは単に雨の降りかたの形容だから、ここで問題にしている氷雨とは関係がない。その二は後で検討するとして、その三に「鬻女、販婦、行商する女」とある。昔は女性が行商する職種が多かったから、広辞苑も特に一項を設けたのだろう。現代でも代表的なものに千葉などから来る野菜の行商婦があり、京成電鉄ではいまだに時間や車両を区切って、行商専用車両を運行しているから、いまの世にも現実に存在する女性の行商人である。これに「春を」という二文字がつくと、これも現実に存在しているとしても、その意味はまるで違って春を鬻ぐ、売春婦を意味することになる。

つい一言多くなってしまった。先のところで飛ばしたその二がこれから話を進めようとしている氷雨で、「雹、霰、みぞれ。またみぞれに近い、きわめて冷たい雨」としているから、「みぞれに近い」という条件付きながら、冬の雨まで含まれることになり、その範囲はまた広がることになる。広辞苑はさらに続けて「忽然天而雨氷」【一天俄かにかき曇り、氷雨が降った】という神武紀の一節を引用している。それに対して講談社『日本大歳時記』は『新撰字鏡』の「霈、志久礼、また三曽礼」を引用し、「かきくもりみぞるる空や冴えそめて凍りもはてぬ時雨なるらむ」という短歌を掲載しており、この『新撰字鏡』を論拠とすれば、時雨も氷雨の範疇に含まれることになる。歳時記でさえもそういう記述になっているのだから、冬の雨を氷雨とはいわない、演歌の一節で冬の雨を氷雨としているのは間違いであるという論理は、少なくとも広辞苑や一般世間では通用しない。それを無視して氷雨の本意を俳句以外に適用してどうこういったら、それは俳人の思い上りということになる。

ここで霰、霙は切り離し、雹についていえば、俳句の世界で氷雨として括られる雹は、夏に多いとはいうものの通年のものだから、それを特定の季節に分類しようとするのは本来ならば無理である。いまでは一年中出回っている胡瓜やトマトを夏に分類するのと同様で、ただ、雹やトマトを夏のものとするのは俳句の世界の自由であるとしても、それはあくまでも本意であって、その本意を抜きにすれば雹を氷雨とし、夏に限定するのは現実的に無理な話である。

それを一方的に夏のものとしているのは、それが本意であるが故で、当然、現実と遊離した考え方であることは承知した上での、いわば俳句における約束事だから、俳句を離れた場でも冬の雨を氷雨といってはならない、というのは俳人の一方的な主張に過ぎない。ただ、これはあくまで言語レベルの解釈で、俳句における本意、つまり約束事とは別である、という基本線を見逃してはならないのはいうまでもない。


つまり、本意という立場から見た氷雨はあくまで雹であり、夏のもので、これは俳句に限定されることだから、その俳句の中で冬の雨を氷雨としたら、それは明らかな間違いということになる。だからそれを間違いとして正すのは当然のことだが、無智ゆえに間違いを犯すものとは別に、本意からいえば間違いであることを承知の上で、なおかつ、そこからはみ出すことを志向する人がいるから混乱してくる。現在の俳句界に、そのはみ出し志向が受入れられる素地はないともいいきれないから、はみ出し方によっては容認しょうという考えも生まれてくる。私などもどちらかといえばそういうはみ出しを、そっと認めたいほうだから話はややこしくなる。

いずれにしても、雹は夏のものというのは俳句の世界のルールで、俳句以外の文芸にそのルールはお門違いでしかない。そこを弁えて割切ることが出来ないから、例の演歌、「飲ませて下さいもう少し」という出だしで始まる「とまりれん」作詞作曲の「氷雨」や、その他の曲の作詞者を非難する意見が出てくることになるが、私にいわせれば、それは俳人によるすり替えの論理以外の何ものでもない。まあ、本意を弁えた上でのはみ出しは容認したいという発言は、それこそ袋叩きに合うのは目に見えているが、問題の歌は「とまりれん」作詞作曲、佳山明生が歌っている「氷雨」というタイトルになっている。その歌の歌詞は「飲ませて下さいもう少し/今夜は帰らない帰りたくない/誰が待つというのあの部屋で/そうよ誰もいないわ今では/唄わないで下さいその歌は/別れたあの人を想い出すから/飲めばやけに涙もろくなる/こんな私許してください」というもので、ここまでなら別に問題はない。

問題なのはこれに続く部分で、「外は冬の雨まだ止まぬ/この胸を濡らすように/傘がないわけじゃないけれど/帰りたくない/もっと酔う程に飲んで/あの人を忘れたいから」となっているが、そのなかの「外は冬の雨まだやまぬ」としているところに問題がある。歌詞の上では冬の雨としているが、その歌のタイトルを「氷雨」としているから、結果として冬の雨イコール氷雨ということになるだろう。


さらに吉岡治作作詞、浜圭介作曲、高田弘編曲、桂銀淑が歌う「酔いどれて」のリフレインの部分にも、「氷雨が窓うつこんな夜は」という詞があって、この歌の氷雨は何を指しているのか、歌詞の上では雹か霰か霙か、あるいはい冬の雨を意味しているのか、季節はいつなのか、などということは特定できないが、雰囲気としては冬の雨を示唆していると考えるのが自然だろう。おのれの不幸をかみしめながら、夜の酒場で飲んでいる女の場合、窓に雹がぱらぱら当たるというのではムードが壊れる。断定してはいけないのは承知しているが、この作詞家は冬の雨をイメージしていると考えたほうが自然ではないだろうか。

問題は初歩段階の俳人がこれを見て、冬の雨を俳句で氷雨と使ってしまうことと、もう一つはベテランの俳人が、こういう間違った作詞の歌謡曲が大流行したものだから、俳句の初心者がそれに振り回され、冬の雨を氷雨と使うようになったからいけない、という論調になることである。しかし、その詞は間違いでも何でもない。俳句の世界の約束事を、俳句以外の文芸にまで適用しようとするのは、俳人の独善以外の何ものでもないから、柔道に相撲のルールを適用しようというのと同じで、あの曲以来誤用する俳人が多くなったのは事実だが、それが氷雨の本意として正しいかどうかということとは別に、言語レベルの話として正しいか、正しくないかということを考えれば、責めを負わせるべきは安易に誤用した俳人に対してなされるべきもので、作詞された詞が間違いないものである以上、作詞家を責めるのはお門違いでしかない。

「冬の俳句で氷雨と使うのは、例の流行歌に起因する情ない間違い」というところまでは、本意に疎いがために誤用した俳人を責める言葉だから、そこまではよいとしてもその先のところで、だからこういう作詞をした人が悪いという、作詞家に責任を押しつけるがごとき論調は、褒められたものではないだろう。俳人が誤用した責任を転嫁された作詞家が反撃に出て、『神武紀』ほかの古文献や、広辞苑の記述を前面に出し、俳句のルールに縛られる必要のない歌謡曲の作詞家、という立場で反論してきたら、氷雨ほかの作詞家を非難した俳人はなんと答えるのだろうか。いちど聞いてみたい気がする。

氷雨が冬のものでもある、という例証にされた『神武紀』を見る前に、氷雨について各種の文献を調べてみたが、これがなかなか面白い。まず『史記』に雨雹の記事が出てくる。孝景帝二年の八月に、彗星が東北の空に現れたという記事に続いて「秋衡山雨雹大者五寸深二尺」【秋、衡山に雹が降った。大きいものは五寸くらいあり、二尺も積った】とある。これは秋としかいっていないが、次に中の元年四月に「衡山原都雨雹大者尺八寸」【衡山の原都に雹が降った。大きいものは一尺八寸もあった】とあり、四月というから太陽暦にしたら六月半ばあたりになる。

そのあと中の六年「三月雨雹」【三月に雹が降った】とあり、こちらはいまの五月ころということになろうか。雹の大きさも一尺八寸といえば五十糎以上になるが、いくらなんでもそんなに大きい雹が降るとは考えられない。中国の一里は四百五メートルのときや、五百メートルのときもあったというから、そういう度量衡の単位は現在の日本とは違う筈だから、具体的にどのくらいの大きさとはいえないが、そういうことも頭において読む必要がある。『史記』や『漢書』はそのほかにも地震、日蝕、月蝕、冬雷、彗星、星の逆行、日が紫の如しなど、天変地異の記事が続いている。

いずれにしてもそういう天変地異が、いつの時代の記録にも出てくるかというと、逆にそのような記録がない時代もある。しかし、いつの時代にも天変地異の現象はあるもので、なんの変異もなく、永久に順序正しく季節が循環するほうが異常である。それなのに記録に残ったり残らなかったりするのは、偏にその時代が平和であったか否かにかかってくる。古代中国では時の皇帝の不徳を、天変地異という形で天が譴責すると信じられていたから、乱世の時代はそういう記事が多くなる。

何となく不条理な感じはするが、乱世の時代に皇帝として生まれついたこと自体、取りも直さずその身の不徳であるといえば、そういう理屈も成り立たないことはない。だが、天が嘉し給う聖帝のときは雹が降っても頬かぶり、災害があっても見ざる聞かざるでは、まったくのご都合主義というものだが、中国では偉いさんのご都合が第一だから、そういうことが大手を振って罷り通っている。そのご都合主義を端的に表しているのが『漢書』で、徳のある帝の御代で天による譴責があっては具合が悪いし、さりとて記録に残さないわけにはゆかない、という股裂き状態から抜け出すため、「左氏伝曰聖人在上無雹雖有不為災」【『左氏伝』には聖徳ある帝のとき雹は降らず、降っても災にはならない】という便利な理論を編み出す。なんとも自己撞着も甚だしいというほかないが、「凡物不為災不書」【何ごとも災とならなければ書くまでもない】し、「書大言為災也」【多いにと書くのは被害が出たからだ】というのであれば、それを書くものの匙加減でどうにでもなってしまう。だから王が淫乱であったり、悪逆非道であったり、または馬鹿殿の時代は、天災について書きまくるのが当り前という仕儀となって、書きまくられたほうはいい面の皮ということになる。

その『漢書』「五行志」は木火土金水それぞれの災を上げ、どの災にも原因と理由があるのだから、人は身を慎まなければいけないと説く。人が天の意思に逆らうと風や雨が続いたり、日照りや暑さが続くというが、反対に人の立居振舞が天の意思に叶ったときは、四季それぞれに応じて季節の運行も順調で、「吹く風、条を鳴らさず、雨、土塊を砕かず」風はそよそよと吹き、雨が降っても土砂降りや長雨にはならない。その五行各種の災を述べたなかの一節、水の災を例に取ると降雪、降雹の記録が連綿と続き、その災のよって来たる理由を述べている。たとえば「桓公八年十月雨雪周十月今八月也未可以雪」【桓公の八年十月に雪が降った。周の十月は今でいう八月だから、まだ雪が降る時期ではない】という。この一文だけでも分かるように陰暦、陽暦の違いのほかに、時代によって暦そのものも違うから、同じ中国で陰暦の時代であっても、「周の十月は今でいう八月」だったり、正月も三月、五月、十月だったりという違いが出てくる。

それはともかく、まだ降るべきではない夏に雪が降ったという、この現象に対する劉向の見解は、「為時夫人有淫斎之行」【このとき桓公夫人は斎侯と浮気しており】「而桓有妬之心夫人将殺其象見也」【桓公が嫉妬したので、夫人は桓公を殺そうとした。それが夏に雪が降るという現象となって現れ】天は桓公に警告を与えたのだが、「桓不覚悟後与夫人倶如斎而殺死」【桓公は天の警告に気づかず、のち、夫人と斎へゆき、そこで殺されてしまった】ということになる。董仲舒にいわせると雨も雪も陰だから、八月に時ならぬ雪が降ったということは、「人専恣陰気盛也」【桓公夫人が我儘勝手に振舞い、女に象徴される陰の気が盛んになった結果】なのだという。天の警告に気づかなかったのが悪いといわれても、奥さんに浮気された挙句に殺されたのでは、それではいかにもあんまりだ、警告に気がつかなかったとしても仕方ないだろうと思うのだが、これでは馬鹿殿でなくてもなかなかどうして、帝王というものはちょっとやそっとでは勤まらないということになる。

さらに「釐公十年冬大雨雪」紀元前六百五十年の【釐公の十年、冬に大雪が降った】が、その大雪の原因は劉向の考えによると、「先是釐公立妾為夫人陰居陽位陰気盛也」【大雪の前に釐公は愛人を正室とした。陰が陽の位についたので陰の気が盛んになって】大雪になったもので、「公羊経曰大雨雹」【公羊子の『春秋今文経』にはたいへんな雹が降ったとある】という。正室も愛人も女だからどちらも陰だが、その陰の中でも正室は陽で、愛人は日陰の身だから陰であるわけだ。続いて「公脅於斎桓公立妾為夫人不敢進群妾」【釐公は斎の桓公に脅迫されて側室を正室にし、ほかの側室はすべて退けられてしまった】結果として、「故専壱之象見諸雹皆為有所漸脅也行専壱之政云」一人の【側室が公を独占したから、雹が降るという結果となって顕れた。釐公は桓公の脅迫に屈して、だんだん独裁政治をするようになった】という。ここでは雹としているから、雪ではなく雹が降ったということになる。 

これが記録する人によって、「雨雪」とは「雪が雨った」となるか、または「雨雪、つまり雹が降った」という違いになることがあるから、実際のところは雪なのか雹なのか、それを書いた人でなければ分からない。しかし、読むほうとしては、どちらにも読めるところが困る。冬でも雹や霰が降ることもあるから、そこは一概にいえないとしても、それが降った時期が冬ならば雪、夏ならば雹と読むのが、確率からいっても正しいのではないかと思う。そこで夏ならば雹、冬ならば雪と解釈したが、平凡社、冨谷至、吉川忠夫訳注『漢書五行志』では、「雨雪」を「雪が雨った」として統一している。『漢書』では「雨雪」と「雨雹」を書き分けており、平凡社版でも降った時期にかかわらず「雨雪」「雨雹」としているから、そちらのほうが紛れのない表記ということになる。 
それに続く記事は「昭公四年正月大雨雪」【昭公の四年一月に雪が激しく降った】とある。これが夏ならばまだしも、冬に雪が激しく降ったところで当たり前のことなのに、それを激しく降ったなどと強調されると、かえって違和感を持ってしまう。まして単なる風景描写として書いているのではなく、事件の発端、あるいは予兆として「冬に大雪が降った」などといわれても、まるでインパクトがない。いずれにしてもその雪は劉向にいわせると、昭公の不徳を天が譴責していることになる。それはどうしてかといえば「昭取於呉而為同姓謂之呉孟子」【魯の昭公は呉から妻を迎えたが、同姓だったので呉孟子と呼んだ】という。それが「君行於上臣非於下」【昭公に対して臣下が不信の念を抱いた】という結果を招く。それは当時の中国にあっては「同姓不婚」【同じ姓のものは結婚出来ない】という原則があり、呉も魯も同じ「姫」という姓だったからだ。いくら権力者だからといって、そんな自分勝手が許されるのかというわけだ。そういう道理に外れた行いの結果として雪が降ったのは、天は昭公の不徳を譴責したということになるのだが、同姓不婚の原則を踏みにじったから、無理にこじつけたという感じもあって、どうもすんなりとは受取れない。一月に大雪が降っても当り前のことで、仰々しく取上げるほどのことでもないからだ。

そのあとも雨雪の記事は続く。「文帝四年六月大雨雪」【文帝の四年六月に大雪が降】り、「淮南王長謀反発覚遷道死」【淮南王の謀反が発覚し、流罪にされる途中で死んだ】その大雪の原因は「京房易伝曰夏雨雪戒臣為乱」【『京房易伝』に、夏の雪が降るのは家臣の反乱を戒める】ためだとある。だから淮南王の謀反を戒める雪が夏に降ったわけだ。それはよいのだが淮南王が謀反を起こすのは「文帝四年六月大雨雪」から数えて三年後で、三年前の大雪と今年の謀反を結びつけても、理屈と膏薬はどこへでもつくのと同じ、誰も納得させられない。このように木火土金水いずれの災であっても、その根っ子には五行思想があり、その五行の調和が失われたことが災の原因だとしている。

雨雪の記事はまだ続く。「景帝中六年三月雨雪」【景帝六年三月に雪が降った】が、それは「匈奴入上郡取苑馬吏卒戦死者二千余人」【匈奴が上郡に侵攻して官馬を奪い、ために二千余人が死んだ】事件がこの雪の原因だとしている。その後の武帝はよほど史家に嫌われた模様で、「武帝元狩元年十二月大雨雪民多数凍死」【武帝の元狩元年十二月に大雪が降り、多数の民が凍死した】というから、年号が出てきたここで初めて西暦年が特定できる。元狩元年は前漢時代で、紀元前百二十二年十二月のことになる。そのような大雪が降ったのは「是歳淮南王衡山王謀反発覚皆自殺使者行郡国治党与坐死者数万人」【この年に淮南王と衡山王の謀反が発覚してみな自殺し、武帝の特使が諸国を巡察した結果、数万人が刑死した】という事件が大雪の降った原因だとしている。

続く記事も武帝治下の事件で、元鼎二年三月「雪平地厚五尺」元鼎二年、すなわち紀元前百十五年の三月、【平地で五尺も雪が積った】とある。私のように雪国生れのものにとって、たかだか五尺くらいの雪が降ったとて、それがなんぼのもんじゃといいたいところで、夏でなかったらその程度のものは災害のうちに入らないが、この原因は一国の宰相が人を貶めようと計ったからだという。次の年、同じ武帝治下の元鼎三年三月、つまり前年同様に晩春から初夏にかけて、「水冰四月雨雪」【水が凍り、四月に雪が降った】元鼎年間としては二年続きの夏の雪ということになるが、そのために大飢饉となって、「関東十余郡人相食」【関東十余の諸郡では人肉相食んだ】と記されている。雪が降った時期が時期だけに、飢饉年となったのは仕方ないが、なんでもかんでも責任を押しつけられては、武帝もたまったものではないだろう。

さらに元帝の建昭二年、紀元前三十七年十一月にも五尺の雪が降ったという記事に続いて、「建昭四年三月雨雪燕多数死」前漢の【建昭四年三月、雪が降って、たくさんの燕が死んだ】とあり、谷永という家臣が皇后に上書していうには、「皇后桑蚕以治祭服共事天地宗廟」【皇后さまは蚕を飼って祭服をお作りになり、天地やご先祖さまを敬っておられますのに】「疾風西北大寒雨雪壊破其功」【西北の風で大寒となり、雪が降って皇后さまのお勤めを台無しにしたのは】皇后としての行いが天の意に添わなかったせいだから「宜斎戒辟寝以深自責請皇后就宮隔閉門戸毋得擅上」【よろしく斎戒して寝所から遠ざかり、深く自戒なさいませ。どうか宮殿に籠って戸を閉ざし、恣になさいませんように】という諫言を受けることになる。

それだけで済めばまだよいのだが、「衆妾人人更進以時博施皇天説喜庶幾可以得賢明之嗣」【皇帝にたくさんの側女を勧め、恵みを施せば天も喜び、必ず賢い世継に恵まれるでしょう】とまでいわれる破目となる。あほか、おまえはといいたくなるが、徹底して男尊女卑であった古代中国にあっては、それが妥当なご意見ということだろうか。この家来は「則不行臣言災異愈甚天変成形」【私の意見をお取り上げにならない時は、災は益々ひどくなり、天変が形になって顕れます】と脅かす。いい加減にせえやといいたいところだろうが、雌鶏鳴いて国亡びるという時代だから、皇后もそれで仕方がないと諦めるほかないのだろう。記事はまだ続く。「陽朔四年四月雨雪燕雀死」紀元前二十年の【陽朔四年夏、雪が降って燕や雀がたくさん死んだ】が、その年から十六年後に皇后が自殺したとある。前兆があってから十六年も経ってからやっと現象として現れ、あれがそうなのだといわれても、そんなものは誰が信じるだろうか。いくら死人に口なしといっても、こんなおかしな理屈を押しつけられては許皇后も浮かばれまい。この後も同じような記事が続いているが、あとは略して劉向の説明に移る。

劉向がいうには「盛陽雨水温暖而湯熱陰気脅之不相入則転而為雹」【陽が盛んなときは雨水が熱せられ、陰の気が陽の気を脅かして相容れないとき、転じて雹となる】といい、さらに「盛陰雨雪凝滞而冰寒陽気薄之不相入則散而為霰」【陰の気が盛んなときは雪が降り、凝り固まって氷結する。陽の気が薄くて相容れないときは拡散して霰となる】という。雹と霰の違いは「陰脅陽也霰者陽脅陰也」【雹は陰の気が陽を侵した結果で、霰は陽の気が陰を脅かしたものだ】と続け、その時期でもないのに雪や雹が降るのは、時の権力者が男であれ女であれ、その権力を恣にするところから来るものだとする。

最後に「凡雹皆冬之愆陽夏之伏陰也」【だいたい、冬の雹は陽の気が過ぎたものだし、夏の雹は陰の気が潜んだものだ】としている。さらに「昭公三年大雨雹」【昭公の三年、大いに雹が降った】のは、闘鶏を巡って「是時李氏専権脅君之象見」【李氏が権力を恣にし、君主を危うくさせた】からだとして、天は降雹という形で昭公に警告を与えたにもかかわらず、それを天の警告だと悟れなかった昭公は、李氏のために帝位から引きずり下ろされたのだという。そのことは「上巳」闘鶏の項で、『淮南子』を引いて述べた。続いて「元封三年十二月雷雨雹大如馬頭」【元封三年十二月、雷鳴とともに馬の頭ほどもある雹が降った】のは前漢の武帝のころで、この元封三年を西暦年で表わせば紀元前百八年のことである。そんな雹が降った原因はその二箇月前、「大司馬霍禹宗族謀反誅霍皇后廃」【陸軍大臣の霍禹一族が反乱を起こして誅殺され、霍皇后は廃された】という事件があり、そんな不祥事が怪異な雹を降らせた原因だとしている。

その後「宣帝地節四年五月山陽斎陰雨雹如雞子」【宣帝の地節四年五月、山陽郡、斎陰郡に鶏の卵ほどの雹が降り】「深二尺五寸殺二十人蜚鳥皆死」【二尺五寸もの穴があいて二十人が死に、飛んでいた鳥も死んだ】のは武帝の降雹から四十一年後のことで、さらに「成帝河平二年四月楚国雨雹大如斧蜚鳥死」【成帝の河平二年四月、楚の国で斧くらいの雹が降り、飛んでいた鳥が死んだ】とある。つまり、陰の気が陽の気を侵し、その結果として雹が降るというのは下剋上の表れで、それはすなわち国が乱れる予兆であるとする。雹の大きさを比喩するものとして鶏卵大というのは分かるとしても、どうして馬の頭くらいなのか、なんで斧ほどもあるのか、どうもその例え方が適当とは思えない。しかし、それは国の違い、文化の違い、考え方の違いや、時代背景から来る違いの場合もあるから、一概になんともいえない。事情が分かってから、ああ、そういうことなのかということなるからだ。

『説文解字』は曽子の言を引用し、「陰之専気為雹」【もっぱら陰の気が雹となる】としており、『左氏伝』を引用して解説しているが、だいたい、古代中国に俳句はないから、日本のように雹の本意は夏か冬か、などという議論は最初から存在しない。四季のどれかに分類しなければならないという前提もないから、雹が降った時期を特定しているだけで、雹は春のものであり、夏のものであり、そして秋のものであり、冬のものでもあるわけだ。その点は日本でも俳句が始まる前は同じことがいえるから、『神武紀』もその流れの中にある。要するにいつ降ったかを述べているだけで、季節的な分類として雹はどの季に属するか、などという問題は起きようがない。もっぱら政治的な側面にウエイトが置かれるから、中国では降雹に限らず、どんな天災もそれ以外に位置づける意味はない。

その延長線上にあるのが沈括の『夢渓筆談』で、第二十一巻の話がそれを如実に表している。「熙寧中河州雨雹大者如鶏卵小者如蓮芡」【熙寧年間に河州で雹が降ったとき、大きいものは鶏の卵くらいあり、小さいものは蓮の実くらいだった】が、「悉如人頭耳目口鼻皆具無異鐫刻次年王師平河州蕃戎授首者甚衆豈克勝之符豫告邪」【人の頭のように耳や口や目、鼻などみな揃っていて、まるで彫刻したようだった。次の年に河州を平らげ、蕃人の首をたくさん取ったが、その戦いに勝つ前兆だった】とあり、熙寧年間というから、千六十八年から千七十七年までのある年ということで、春夏秋冬の別は特に書いていない。人の顔そのもののような雹だったというのは、中にはそんな風に見えるものもあったろう。しかし、全部がそうだったといわれると、白々しさだけが先に立つ。次の年の戦いに勝つ前兆だったなどといわれると、ああ、そうだろうよと横を向きたくなってくる。この記事は後で述べるように『和漢三才図会』にも引用され、寺島良安も「非常之怪雹不堪論」【非常識過ぎて話にならない】とばっさり切り捨てているが、この『夢渓筆談』の著者沈括は「山笑う」に登場する神宗の時代、北宋の官吏で王安石のブレーンの一人だった。 

また、『歴代帝王年表』の紀元前二十九年の項に「夏四月雨雪」とあり、続く紀元前二十八年と同二十六年に黄河が決壊したとある。そのあとの二十一年にも「夏四月雨雪」とあるから、前にも書いた通り、中国では徳のない皇帝を天が譴責した結果が天災なのだから、前漢も十一代目ともなると、箍が緩んできたということだろう。成帝の政権周辺は、体制の立直しに躍起となっていたと見えて、紀元前十九年に「飛雉集未央宮承明殿」【未央宮の承明殿に雉が群れていた】などというヤラセをする。見ていたわけでもないのにヤラセ、というのは乱暴かも知れないが、中国史における瑞兆なるものは、まず百パーセントといっていいほどヤラセ、八百長で、政権を維持するため、無智な民衆の人心を収攬する目的以外の何ものでもない。

ところがそのヤラセの甲斐なく、紀元前十七年にまた黄河が決壊し、続く同十五年には「二月星隕如雨」【二月に隕石が雨のように降った】し、同十年は「正月岷山崩壅江三日江水竭」【正月に岷山が崩れ、揚子江を三日に亙って塞いだため、揚子江が干上がった】とか、紀元前七年というから綏和元年「九月地震」それから五年後の元寿元年「正月朔以伝晏丁明並為大司馬以日食罷晏」【正月に伝晏、丁明を大司馬としたところ、日蝕があったので晏を罷免した】などと悪いことが続く。この大司馬は武官の最高位に相当し、いまでいえば陸海空の三権を一手に掌握するもので、皇帝の下に丞相、大司馬、御史太夫という序列となって、これを三公という。結局、成帝治下の二十五年間に七回も改元しているから、まったく踏んだり蹴ったりで、屋台骨の揺らいだ組織はその大小を問わず、トップにあるものはご苦労さまというほかない。

ところで問題の、氷雨は冬のものでもあるという例証にされた『神武紀』だが、その『神武紀』を前面に立てて声高に主張しても、そこに論理のすり替えがある。というのは『神武紀』の時代に俳句は存在していなかったから、その当時は中国の考え方の延長であって、俳句の本意とはなんの関係もない。本意から外れたら雹は通年のものでしかないから、夏のものであって冬のものでもあり、春、秋のものでもあるというのは当然で、これは気象学的な立場となる。だから氷雨の本意は雹で、同時に夏のものであるという前提条件を認めながら、なおかつそこから踏み出したいというケースは別として、俳句の本意からいえば雹は夏だが、『神武紀』では冬としているというのは、気象学的な立場と俳句の本意をごちゃまぜにした論に他ならないから、そこは気をつけなければならないだろう。

という理屈はさて置くとして、『神武紀』は長髄彦との戦いの場面で「十有二月癸巳朔丙申(中略)時忽然天陰而雨氷」【十二月四日(中略)一天俄に掻き曇り、氷雨が降った】という記事があり、「十有二月」には「シハスノ」「雨氷」には「ヒサメフル」とルビが打ってある。このルビは最初からあったものか、それとも後で誰かが書き入れたものか分からない。たぶん、後からの書入れではないかと思うが、この部分は『日本書紀』が同様の記述になっており、『神武紀』はそれに続いて金鵄勲章の起源となった記事、天皇軍の弓の弭に止まった烏が金色に輝き、長髄彦はそのために目が眩んで戦えなくなったとある。注記に「雨氷者如楚詞云凍雨兮塵倭名鈔云霈音沛日本私記云火雨和名比左女雨氷同上按俗云比布留」【雨氷を『楚詞』では凍雨としている。『倭名鈔』では霈の読みを沛とし、『日本私記』は火雨、和名を比左女としている。雨氷も同じもので、世間でいう「氷降る」である】として、「霈」には「ヒサメ」というルビがある。「楚詞云」とは中国の文献を引用してのことだから、当り前といえばあまりにも当り前のことだが、『神武紀』でも氷雨は通年のものという中国の考えを踏んでいるわけで、そこに俳句の本意など存在していないことは明らかである。

「霈音沛」とは「霈」の読みは「ハイ」であるということで、その意味するところは氷雨であり、「比布留」ともいうとしている。この『神武記』を始めとした『古事記』『日本書紀』などの記事が、冬の雨を氷雨といった例があるという論拠にされたわけで、論拠としては確実なものといえる。しかし、それは俳句の本意とは平行線を辿り、どこまでいっても交叉しないことは明らかである。だから、冬の雨を氷雨ということ自体は決して誤りではない。問題は氷雨といったら雹のことで、その季節は夏である、というのは俳句の世界の約束事で、本意としてどうであるかということと、俳句の世界の約束ごとを、他のジャンルに適用してものをいったり、あるいは強要してよいかということである。もしそれをしたら先にも書いた通り、柔道に相撲のルールを押しつけるのと同じことで、単に横車を押しただけのことになってしまうだろう。

『古事記』は神武東征の条りで、長髄彦との戦いに触れているが、金鵄と氷雨の話はなく、別な記事の二箇所に氷雨が出てくる。『古事記』『日本書紀』は内容は神話であっても、それが編まれた奈良時代に氷雨は夏のもの、冬のものという限定はなく、通年のものであるという中国の認識をそのまま受継いでおり、それはあくまで俳句とは無縁の、気象学的な考えであることはいうまでもない。いずれにしても『続日本紀』は奈良時代の年表のようなものだから、『古事記』『日本書紀』のような神話と同一に論ずることは出来ないが、そこにも氷雨の記述がある。

『続日本紀』第十五巻最終章に「六月壬子雨氷」とあり、次いで第三十三巻に「庚戌雨雹大者如碁子」続く第三十四巻には「丙戌雨雹(中略)甲午雨氷」ということで、四月五日に雹が降り、四月十三日に氷雨が降ったとある。ここでは雨雹と雨氷の使い分けをされているが、その時期は太陽暦換算で六月初めころということになる。同じ文節で雨雹、雨氷と表記が違うのは、著者としての美意識の表れとも思えるし、あるいは『漢書』の例にも見られるような、別のものを指しているとも考えられるから、俄かにどちらとも断定できない。

寺島良安の著になる『和漢三才図会』は「雹、音薄俗云比也宇」として『五雑組』を引用している。「五雑組云雹似霰之大者但霰寒而雹不寒霰難晴而雹易晴如驟雨然」【『五雑組』で雹は、霰の大きいものに似ているという。ただ、霰が降るときは寒く、雹が降るときは寒くはない。霰が降るときはすぐには晴れないけれども、雹のときはすぐに晴れるので、夕立のようなものだ】説明し、「雹多降干夏日」【雹は夏に降ることが多い】というが、ここでも「多くは」と条件をつけて、夏だけのものだとはいっていない。

続けて『本草綱目』を引用して「雹者陰陽相搏之気蓋沴気也」【雹は陰陽の二つの気がぶつかりあって生じるもので沴気、つまり悪い気なのだ】といい、曽子の言として「陽之専気為雹陰之専気為霰也」【陽の気は雹となり、陰の気は霰になる】とし、「五雷経云雹乃陰陽不順之気結成」【『五雷経』では、雹は陰と陽の不順な気が一体となって出来たもの】だとして、雹が形成される経過を天文書によって解説している。

それによると「天与地間分為三際近地為温際近天為熱際中間為冷際夏月則冷際愈冷也」【天と地の間を三層に分けると下層は暖かく、上層は熱く、中層は冷えているが、夏になると中層が益々冷える】と分析し、「蓋冬月地気上升之力甚緩雲足闊而雨変」【しかし冬の間は地気の上昇速度が遅いので雲の下で広がってしまい、雨になる】が、それに対して「夏月上升之力甚迅雲足狭鋭故能至于冷之深際也」【夏は上昇速度が速く、拡散されないから、中間層の深いところまで地気が昇る】という。だから「気升也愈厚騰上也愈速入冷也愈深変合也愈驟結体也愈大則驟凝為雹」【気はいよいよ厚く、高く昇り、急速に冷やされるため変化する速度も速く、それが集合し、氷結して大きくなり、雹となる】のだという。私などにはよく分からない理屈だが、夏の雄大な積乱雲を目の当たりにすれば、いい加減派の私にも感覚的に頷けるところがある。

そして「雹体中虚者以其激結之驟包気干中也」【雹が虚ろなのは気の凝結が早いため、中に気を包むからだ】と結論し、中国の伝説を破折する。「夫龍鱗中生氷蜥蜴出雹等之説不足取也」【龍の鱗に氷がつき、それが雹となって降るとか、蜥蜴が雹を出すのだというような説は取るに足りない】というもので、それは確かに取るに足らない説ではあるけれども、その代りほんわかとした夢がある。それに対する寺島良安は、科学に徹しているからそういうことになるのだが、いまのような殺伐とした時代になって見ると、やはり夢があったほうがよい。

続けて日本の北のほうでは、ときどき夏に雹が降るけれども、畿内のようなところで雹が降ることは十年に一度もないことだといい、実例を紹介している。それは元禄十五年五月十六日というから忠臣蔵の討入の翌年ということになるだろうか。申の刻、つまり七ツから七ツ半、現在の時刻では午後四時から五時までの間に「驟雨有雷雲迅速雨雹始于摂津経河州終和州国分自乾至巽斜也其間六七里横不過一里」【夕立があって雷が鳴り、雲が早く流れて雹が降った。摂津から河内を横切り、和泉の国分まで、北西から南東へ抜ける六、七里というコースだったが、その幅は僅か一里足らずだった】といい、そのときに降った雹は角張っていて、瓦の破片のようだったという。大きさは鶏の卵から蓮の実くらいで、人に当って怪我したり、瓦が割れたりする被害があったが、ほんの一ツ刻で止んだとしている。

それに続けて『夢渓筆談』を引用し、「北宋熙寧中河州雨雹如人頭耳目口鼻皆具無異鐫刻者非常之怪雹」【北宋の熙寧年間に河州で降った雹は、人の頭にそっくりで、彫刻したように耳や目、口や鼻がついていたなどというが、そんな奇怪な雹は】「不堪論」【お話にならない】と結んでいる。だが、正史と違って各地の民間伝承を取込んでいる随筆集に、多少の脚色や潤色があっても仕方がない。ましてやこの『夢渓筆談』は「異事異疾」で括り、前以て怪異談ですよと断ってあるのだから、それを論に堪えないなどと大上段に振りかぶられたら、沈括ならずとも文句の一つもつけたくなるだろう。それとも洒落の通じないやつはこれだから困ると、地下で苦笑いしているかも知れない。

次に小野蘭山著『本草綱目啓蒙』は「雹、ヒサメ、オホアラレ、ヒヤウ」として一名冰子、雨冰、煖天冰、閟都魯、冰冷、硬雨、硬頭雨、白雨など日本、中国、蒙古で使われた雹の異名を上げ、その雹を「和名鈔ニアラレト訓ズルハ非ナリ。アラレハ霰ナリ。雹ハ冬月、雪ノ前ニ降ルアラレニ非ズ。夏月、雷雨ノ時ニ降ルヒヤウ也。其形三稜アリ、重サ二、三銭、或ハ卵ノ如ク大ナルモアリ、和漢例多シ」として、こちらは雹を夏に限定している。ここでちょっと注釈が必要なのは「重サ二、三銭」の「銭」で、いまは銭といえばお金のことだが、昔は重さに「銭」という単位が使われていて、一銭は三・七五グラムだという。これは宋代に制定された重量の単位で、十分で一銭、十銭で一両だから一両とは三十七・五グラムということになるが、別な資料で一両は十六グラムとしているものもある。同じ銭、両という呼称でも、国や時代によって単位も変ってくるから、なんでもかんでも一括していうことは出来ない。『延喜式』にもしばしば両という単位が出てきて、日本での一両は十六グラムだという記述もある。中国五千年の歴史から見れば、度量衡の改廃など日常茶飯事だから、これはもうなんともいえない。

この『本草綱目啓蒙』は雹とは別に、「霰」として別項を立てている。「霰、霓、アラレ」として異名の米雪、濇雪、湿雪、粒雪、雪子、稷雪、雪媒、石雪、冰雪、玉英、銀鑠、米粒雪などを載せ、「又唐山ニテミゾレヲ霰ト云フ説アリ。故ニ本邦ニテコノ字ヲミゾレト訓ジ来レリ。和名鈔モ然リ」として『正字通』を引用し、「爾雅雨霓為霄雪郭註詩如彼雨雪先集維霓霓水雪雑下者故謂之霄雪又曰陸佃云閩俗呼水雪」【『爾雅』は雨霓を霄雪とし、郭註の詩では雨雪だとしている。『先集維』では霓が水雪に混じって降るところから、これを霄雪といっている。また、陸佃がいうには、閩では俗に水雪といっているという】としている。こうなってくると雹は夏か冬かという話とは別に、雹と霰と霙の区分もだんだん怪しくなってくる。だいたい、物事をとことん突きつめてゆくと、究極のところでは曖昧模糊となるものが多い。

これが謝肇淛著『五雑組』になると、「忽聞大声震地走視門外乃見一雹」【大音響がして地面が震えた。走り出して門の外を見ると雹があった】といい、「其高与寺楼等入地可丈余経月乃消其言似誕然宇宙之中恐亦何所不有」【その高さは寺の楼門ほどもあり、一丈あまりも地に埋まっていたが、一月後にやっと消えた。これは大法螺のようだが、宇宙にはどんなことでもあるのだろう】とあり、この話は『稽神録』からの転載だと断っている。この話も白髪三千丈と同断で、いくら隕石と違って氷の塊だといっても、地中に一丈も埋まった上に、地上部分がお寺の門と同じくらいの高さのものが降ってきたら、少なくとも周囲何キロかは壊滅し、何もなくなってしまうだろう。どう贔屓目に考えても「走り出して門の外を見たら」などと暢気なことをいっていられたものではないし、それを「大法螺のようだが、宇宙にはどんなことでもあるのだ」などといわれても、そのまま受取れる筈はない。こういう分かりきった矛盾を丸飲みにしてしまうところは、いかにも中国の話という感じがする。

高井蘭山著『訓蒙天地弁』は「霰、霙」の項で、「霰、霙は雪の類なり」として、「風雪の定めに雨湿の凝る処なり。あるいは雨雪となり、(中略)陽気あるときは消散して霰となり、霙となるもあり」とし、続けて「夏、雹の降る」と題した部分では「雹はあられの大なるもの、又、霰、霙と同物にしてその形大きく、雲物として夏降り、禾黍を損ふの理はいかん」【雹は霰の大きいものをいい、また、夏の雲から降って作物を傷めるが、それはどういうわけか】という問に対し、「嘗て云く天地の間、三際の理ありて、冷際の中に極雲の如き春秋二時の雨、三冬の雪は冷の初際に至つて降り下る。是、地気昇ること緩きがゆへなり」【天と地の間には三つの層があって、春や秋の雨、冬の雪は、寒さのために地気の上昇速度が遅く、それで雨や雪となる】が、「夏は地気の上昇する事甚疾し、よりて遥に上つてたちまち極雲際に突衝し、あるものは雨凝氷つて雹となる。其の大小あるは雲の浅深と雲気の厚薄による」【夏は積乱雲を見ても分かるように、地気の上昇速度が激しいため、きわめて高いところまで一気に上って寒気が凝固するから雹となる。その雹にも大小があるのは、そのときの雲の状態によるものだ】とし、「暑中俄に凝る雲物なれば、造化生育の益なくして却て田畠を損ひ、荒す理なり」【冬に雪が降るのと違って、作物が育つときに降るから、これらの作物を損なう】のだという。

そして「気候天地の間に行ふときも五、六月、一陰、二陰の時、陽気太色し、不及の陰を陽発して和合せず、陰また逼り凝る時は、いよいよ極寒をなす。是、夏月に雲物の降ること怪しむに足らざる所なり」とある。こういう理論も中国から日本に移入されたもので、『和漢三才図会』ほか各種の文献にも記載されており、その淵源は『五雑組』などの説を敷衍したもので、この二人の業績をいささかも貶めるものではないが、少なくとも寺島良安や高井蘭山独自の理論ではない。
近代の用例で毛色の変ったものは、薄田泣菫の第三詩集『二十五弦』の「公孫樹下にたちて」に、「氷雨もよひの日こそ来れ」という一節があって、その時期は特定は出来ないが、発表時期や詩文の前後の関係から十二月と推定される。また、島崎藤村の『夜明け前』に「ある日の午後、馬籠峠の上へは稀にしか来ないような猛烈な雹が来た。にわかに掻曇った晩秋の空からは、重い灰色の雲が垂れさがって、(中略)やがて氷雨の通り過ぎて空も明るくなった頃」とあり、ここでは晩秋としている。その他には雹そのものではないが、『聊斎志異』一巻と十二巻に「雹神」という話があり、雹の神である李左車が登場する。第一巻のほうは、李左車が雹の神だということを知らない農民に親切にされ、お返しにその農民の畑だけ雹を落とさなかったという話だが、「此上帝玉勅雹有額数」【上帝の命によって降らせる雹の数も決まっている】という、そんなに細かく規定されているものを、その農民の畑だけ降らせなかったというのは、尻の毛まで抜き兼ねない中国にあってはあり得ない話である。また、十二巻にも李左車が登場するが、その時期については春夏秋冬いずれとも言及していない。それも当然のことで、中国では雹を四季のどれかに区分しなければならない理由はないからだ。

ここまでいろいろ見てきたように、出典や用例はまだあるとしても、いずれにしろ現実に雹、霰は年間を通じて降るもので、俳句の世界で氷雨とは何を指すかが問題になる。本意本情は夏ということになるが、しかし、俳句の世界の本意を離れ、単に氷雨とは雹または霰、霙、時雨等と規定する限り、四季を通じてのものである。その点、講談社『日本大歳時記』は雹を夏に、霰を冬に立てて共に氷雨としているし、ここに引用した各種の文献は俳句のことなど頭にないから、世間一般の立場というか、俳句界以外の考え方しかしていない。 

以上に述べたもろもろを踏まえて、冬の俳句に氷雨と使うのは本意に悖ると力説するのはよいが、それはあくまでも俳句の世界だけの約束事である。だから俳句の約束に拘束されないところで、どう使おうとそれは各人の自由である。ただ、それとは別に俳句の世界で俳句の約束事に違反したら、それは間違いだという論点は正しいし、その約束事を知らない初心者が、冬の俳句に氷雨と使うのは問題外として、では本意に悖ることを弁えた上で、冬の俳句に氷雨と使った場合はどうするかということである。作者としてのポリシーまで否定されなければならないのかというと、私はそこまで踏込むつもりはない。それには「花は桜」「あさがほは牽牛子」という、原点や本意から外れたものが、俳句の世界で公認されているという背景がある。とはいうものの「夜の秋」は別として、俳句が連歌から独立したとき、もうすでに花は桜、あさがほは牽牛子と変化した後、といういいぶんもあるから、話としては一筋縄ではゆかない難しさがある。 

季語絶対論者にはそれこそ絶対に容認されないことは承知しているし、私自身も季語のいい換えをしてはならない、という原則に立つものではあるが、そのなかでも人によっては、ポリシーとしていい換える場合もあり得る。だからそこまで否定する勇気はないが、いずれにしてもその約束は、俳句の世界だけに通用することだから、俳句以外の世界、世間一般から見ればいささか説得力に欠けることは否めない。氷雨の本意は夏である、という論は私もその通りだと思うが、さりとて夏に限定してしまうのも、なにやら独善の匂いがしないでもない。現に歳時記でも幅を持たせているものがあるし、現代俳句協会編『現代俳句歳時記』も、雹という個別のことではなく、トータルとして、本意というものに対する問題意識の萌芽が見られる。あくまで本意を貫くならば、通季などという考え方は否定せねばなるまい。


しかし、通季という部を設け、「通季の句」として作品を載せていることは、取りも直さず現代の俳句にあっては、四季の部だけでは律しきれない部分がある、本意に背くといえども止むを得ない部分があるという、消極的にではあっても本意に対する問題意識なしに、通季の部を設けることなどはなし得ない筈で、これは単に現代俳句協会編『現代俳句歳時記』だけのことではなく、本意を遵守する立場の人であっても、花の本意を桜であるとするのは、では梅はどうなのか、「あさがほ」はどうなのか、夜の秋はどうなのかという問題にも繋がってくる。

そういう意味からいえば「冬の雨を氷雨といった例がある」という、その『神武記』ほかの雨氷が、そのまま冬の雨を意味するとも思わないが、表記を逆にしただけではない微妙な違いがあることも事実で、それと共にフィールドの違いを無視した発言があるとすれば、それはとりも直さず俳句界の暴走といわれても仕方がないだろう。これはやはり氷雨、雨雹、雨氷、雨雪という、単なる表記の違いか、それとも別のものかという検証は必要だし、その論議の根底のところで、他の文芸との違いを認識する必要があるのではないだろうか。『神武記』の「雨氷も同上なり」という記述から類推すれば氷雨、雨雹、雨氷は、同じものと解釈してよいのではないかと思えるから、『続日本紀』の編著者である菅原真道の、表記に対する美意識、あるいは美的感覚による書分けではないか、と解釈しては考え過ぎだろうか。


いずれにしても演歌で歌われたというムードに流され、恣意的に冬の雨を氷雨と使うのは、俳句実作者としていささか主体性に欠けるのではないか、というのが私の自戒を籠めた思いであるし、本意からいえば誤りであることを承知した上で、なおかつ冬の雨を氷雨と使いたい、というはみ出し志向を是とするか、非とするか、悩ましい問題である。