2012年6月3日日曜日

尾鷲歳時記(71)

真珠採り
内山思考

折りたたみ式の夏山少年期  思考

思い出のスナップ、再転校以来一人会っただけ











和歌山県太地町の記憶をもう少し辿ってみたい。テーマは「真珠」、六月の誕生石でもある。小学五年生の春、山奥から転校して来た僕に最初に声をかけてくれたのはM君だった。おっとりして体の大きな彼がある日、「これ、やるわ」と棉でくるんだ物を差し出した。開けてみると小さな真珠が入っている。僕は驚いて目を丸くした。

彼が言うには、お母さんが真珠養殖場で働いていて(彼は母子家庭であった)オカズとして貰ってくる貝柱の中に稀に真珠が入っているのだとか。それが歯に当たる様子をして見せて彼は楽しそうに笑った。

あの真珠は僕の半生の何処へ消えてしまったのだろう。 五年六年の担任だったのが橋本先生。背広のよく似合うスマートな紳士だった。卒業が近づいたある日、クラスのお別れ会が図書室で行われることになり、その時、先生はバレーを踊ると言ってなんと黒いタイツ姿で現れたのである。

生徒と、何人か来ていた母親たちも一斉に笑った。バレーって女性がするものなのに、あの格好と言ったら…、そんな雰囲気だったろうか。なにか口上を述べてからレコードに針を下ろすと先生はポーズをとった。やがて静かな、しかし力強い旋律が流れ先生は踊り出した。それは余興というにはあまりにも真剣でしかも見事なダンスであることが子供の眼にもみてとれた。

もう誰も笑ってなどいなかった。先生は曲が終わると同時に床に倒れ臥した。肩が波打っている。「先生、大丈夫やろか」泣きそうな声で女生徒がささやき、皆がざわめき出した頃、先生は立ち上がった。笑顔に汗が光っていた。安堵と賞賛の拍手に包まれたその時の先生の姿を僕は今でも忘れない。海の底から響いてくるような歌は「真珠採りのタンゴ」。

1965年・昭40年発行の
切手・左頁
演奏していたアルフレド・ハウゼ楽団の初来日が丁度、その年(1965年)だったのを知ったのはずいぶん後のことである。橋本先生が学生時代から本格的にバレーをやっておられたこともその後誰かに聞いたような記憶がある。今あらためて当時のアルバムを広げて見ると泣きたいほど懐かしい。