2012年7月29日日曜日

尾鷲歳時記(79)

福田基(もとい)さんと本
内山思考

鬼の汗こたびは伎芸天に惚れ   思考

基さんは書家でもある。墨継ぎなしの般若心経











「好きな本あげるから取りに来なさい」と白燕の同人だった福田基さんに言われ、妻と一緒に車で五時間かけて尼崎へ行ったのは、もう十年以上も前のこと。基さんは知る人ぞ知る大蔵書家で、マンションの万冊単位の専用図書室はさながら老舗古書店といった趣(おもむき)、僕と妻はしばらく口を開けてあたりを見回すばかりだった。巨躯で白髪、眼光鋭く鷲鼻の基さんは、書に凝るあまりに妖怪化してしまったような雰囲気で、いろんな珍書古書怪書について説明してくれる。その聞き役を妻に(たぶんチンプンカンプン)任せて僕は書架のあちこちに視線を走らせ、好みの分野と思える背表紙があると抜き取って開いて見る作業を繰り返した。

「ホトトギス雑詠全集」がずらりと並んでいる。俳句を始めた頃お世話になった地元の俳人、泉月さんの顔が浮かんだ。戦前、満鉄に勤めていた泉月さんは虚子の巻頭を取ったことがあり、賞金?で俳句仲間と会食をしたことがあると懐かしそうに話してくれた。この全集を貰って帰ってその時の句「温突(オンドル)に薬箪笥の煌びやか」を探してみようと思った。

泊月の句
雲海に向かつて吹けり法螺の貝
30年前、泉月さんは「貴方は今から俳句やってたら将来、いい宗匠になれるよ」と微笑んでくれたが、僕はいい宗匠になれないまま来年還暦を迎えようとしている。他に昭和五年発行の「子規全集」もすてきな保存状態で並んでいて、それも頂くことにした。そうそう「雑詠全集」の一冊の扉に野村泊月の直筆の句があったのに後で気がついて驚いたものだ。確か「雲海」の句だったような記憶がある、これから探してみよう。

頂いた本を沢山積み込んで帰る時、「もういいのか?また来てもいいよ」基さんはそう言って見送ってくれた。基さんはその後、大方の蔵書を寄贈してしまったそうである。助手席の妻が本を一冊抱いているので「それどうしたの?」と聞くと、「私が見てたら福田さんが、奥さん、いい本に目をつけたね、値打ち物だよ」と言って呉れたのだとか。それはコケシの専門書だった。