2012年8月12日日曜日

俳句ナショナリズムからの解放

芳賀 徹
第12回現代俳句大賞受賞記念エッセイ

平成24年3月24日
表彰式にて










高浜虚子は昭和十一年(一九三六)二月十六日から六月十五日まで、ちょうど四个月、生涯にただ一回の、そしてはじめてのヨーロッパ旅行をした。その旅上の日々の見聞の記録が、帰国後まもなく一冊の本となった『渡仏日記』(改造社 昭和十一年八月)である。
 


この『日記』は当年満六十二歳、終始一貫和服姿の大宗匠虚子の益荒男ぶりをよく示していて、まことに興味深い。なかでも驚く、という以上に度肝をぬかれるのは、彼がパリ、ベルリン、ロンドンでおこなった講話における俳句的愛国主義者ぶりである。とくに『日記』にかなりくわしく記されていて強烈なのは、昭和十一年四月二十五日土曜の夕刻、「伯林日本学会」の会議室で満場の聴衆を相手に語った日本俳句論だった。
 


はじめに、俳句がわずか十七文字の超短詩型の文学となった由来を説いて、日本人は「複雑な喜怒哀楽の情を現すにも沈黙微笑をもつてすることを好み」、ことに詩においては「一本の草花一羽の小鳥に」託して感情を表現することを好むからだ、という。
 


ヨーロッパではすでに十九世紀後半以来のジャポニズムの流行によって、日本人は小さな自然現象の観察をとおして宇宙の摂理を予覚し、人生の哀歓を表現するというのが、日本藝術受容上の一つのステレオタイプとなっていたから、ドイツ人聴衆もそれに合わせてこの説明を呑みこむことはできたろう。その上に、なんといっても、語っているのが当代一の俳句詩人という髙浜虚子、彼の端然たる着物姿と声がすでに人々を魅惑してもいただろう。
 


彼がつづけて、欧米で俳句を試みる人は十七音節にこだわる必要はない、それは音韻構造の差異を無視した無用なことだ、と説いたのは正しい。十七音にこだわるよりは春夏秋冬の自然のうつろいをよく観察せよ、ドイツの春景色もなかなかよいではないか、その「あるがまま」の美しさをとらえて讃えよ、と語ったのもよい。そしてその花鳥調詠を試みるときに、俳句では、自然の現象を「人間の運命に譬へたり、又それによって恋を詠ったり、又哲理をその中に見出したりすることは直接には致しませぬ」との言葉は、さらによい。さすが東西古典に通じた大教養人ならではの言だ。たしかに、ゲーテやワーズワースにしてもヴィクトル・ユゴーにしても、詩の中でもっぱらそのような哲学論、人生論、宗教論の長広舌をふるうのを得意としていたからである。
 


だが、この後に、花鳥諷詠に季語は不可欠として、虚子は日本列島の春の季語を幾十となく恬然として例示してゆく。ここがベルリンで、聴衆はドイツ人であることなどいっさい無視したかのごとく強引に日本の動植物名を列挙してゆく。そこにいまの私たちは、大宗匠の貫禄などという以上に、そして愛国主義という以上に、他者に対して鈍感な国粋主義の口調さえ感じて、呆れるのだ。
 


「雪が解けたり、菜の花が咲いたり」と日本の春を語りだして、海棠、ゆすら、木瓜と花の名を挙げてゆくあたりまでは、当夜通訳をつとめたベルリン大の日本人留学生もなんとか追ってゆけたろう。だがすぐにつづけて「海には鹿尾菜、海雲、海髪等がとれ、畑には大根の花、豆の花、水菜、鶯菜等が出来又動物には鶯、雉子、鷽、駒鳥、雲雀、燕、蛙、蝶、虻、蜂、蚕等が時を得顔に活躍し、その他天文、地理等も複雑美妙な種々な現象おこします…」
 


まるで歳時記の目次をただ読みあげているような講演である。当夜にわかに頼まれたという通訳生はまったくお手上げ、そして聴衆は、いくら日独の接近急な時代とはいえ、ただ唖然、呆然とする以外になかったろう。これでは日本の四季を知る日本人以外には俳句は作れない、というようなものではないか。実際、虚子はこの後すぐに「日本は俳句の聖地エルサレム」と語り(ナチスによるユダヤ人虐殺が進行中の時代に「エルサレム」を称するのも相当な度胸だ)、俳句を作るためには日本にいらっしゃい、と聴衆に呼びかけもする。
 


虚子はパリでは幾人かのフランス人ハイキストと一夜、二夜の交流もした。だが彼らは詩人としては二流、三流の人々にすぎなかった。そのなかの一人、ポール=ルイ・クーシューの俳句論(一九〇六)に収められた芭蕉、蕪村の仏訳に遠く近く刺激されて、来日したこともないあのドイツ詩人リルケが、後にフランス語で俳句風短詩集『果樹園』を出していたことを、虚子はまだ知らなかったのだろうか。さらには、彼より六歳年長のフランスの大詩人ポール・クローデルが、大使として大正後半の日本に在勤中に俳句・短歌に学んで一七二首の短唱集『百扇帖』(一九二七)をあらわしていたことを、彼はまったく知らなかったのだろうか。
 


『百扇帖』には虚子の同時期の「白牡丹といふといへども紅ほのか」などに立ちまさる牡丹の句がいくつも収められている。そして例えば次の一
 ――
 Bruit de l'eau sur de l'eau
 ombre d'une feuille sur une autre feuille
  水の上に 水のひびき
  葉の上に さらに葉のかげ(山内義雄訳)
となれば、十七音はもちろん、虚子の偏執する日本的季題をいっさい超え
、むしろそれを超えたがゆえに一段とみごとな俳句的短詩となっていた。自然のもっともかすかな動きを把えて、まさに縹渺として深遠な諷詠となった。芭蕉の「蛙飛びこむ水の音」や「岩にしみ入る蝉の声」にまさるとも劣らぬ一句とさえいえよう。『百扇帖』はこの俳句的緘黙の実験によって、フランス詩五百年の饒舌の歴史に、実は革命をもたらしたのである

近年のスエーデン詩人トマス・トランストロンメルの「俳句詩」まで含めて、俳句は、各国第一流の詩人が俳句に刺激されつつも、ときには季語のことさえ忘れて「物の見えたる光」の一瞬を短詩型のなかに捉えることによって、現代詩としての存在理由を獲得し、世界に普遍化してゆくのだろう。虚子の俳句的ナショナリズムとは逆の寛容と度量をもってその動きに接するとき、日本の俳句詩もまたさらに深く鋭く豊かになってゆくのではなかろうか。