2013年3月24日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(116)

山手線・日暮里(その15)
根岸(上根岸82番地の家①「子規庵」)
文:山尾かづひろ 

秋山真之













都区次(とくじ): 正岡子規の俳句は「日本派」とも呼ばれますが、この経緯は何ですか?
江戸璃(えどり):子規は編集長・古島一雄の下で時事俳句を担当したけれど、それほど量があるわけではないので、すぐに仕事が終わってしまう、古島も仕方なく子規に「獺祭書屋俳話」という俳論を書かせ政治面の二面にタネが無い時に載せたわけ。ところがこれが馬鹿受けしてね。購読部数も伸びたのでしょうね。子規の発言力が増して古島に「俳句を選んで載せなければダメだ」と進言したのよ。毎日17句でね、「日本俳句」として載せたのよ。
都区次:その17句というのは訳があったのですか?
江戸璃:当時の新聞『日本』の原稿用紙が18行でね、1行目に題を書いて17句並べたのよ。

  終の住居へ転居をしたる花の雲  大森久実

都区次:子規は上根岸88番地から82番地に転居していますが、何か訳があったのですか?
江戸璃:簡単に言えないので次回に話すわね。
都区次: 昨日が彼岸明けで気候が良くなってきました。浅草以外に一家が出掛けたのはどこですか?
江戸璃: 日本橋浜町河岸へ挨拶に行った筈よ。
都区次:これは何があった場所ですか?
江戸璃:一家で旧松山藩の旧藩主の久松家の藩邸に挨拶に行っている筈よ。同郷の秋山好古と秋山真之も上京時には挨拶に行った筈よ。子規は16歳のときに大学予備門への入学準備で藩邸内の寮に秋山真之(日露戦争・日本海海戦の名参謀)とともに寄寓していたことがあったのよ。あとで近くを散策してみましょう。

 
藩邸近くの明治座(現在)









この辺り浅蜊売り来し町ならん  長屋璃子(ながやるりこ)
春塵や見世物小屋の並び立つ   山尾かづひろ