2013年4月7日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(118)

山手線・日暮里(その18)
根岸(上根岸82番地の家③「子規庵」)
文:山尾かづひろ 

水天宮













都区次(とくじ):子規と言えば俳句の革新運動ですが。
江戸璃(えどり): ちょっと思い込みが激しいみたいだから、予備知識として現代俳句協会の機関誌「現代俳句」の昨年11月号の秋尾敏氏の現代俳句講座「子規の時代」を読んでおいてちょうだい。分り易く書いてあるから、すぐに読めるわよ。子規が生れたのは明治維新の前年、即ち大政奉還の年の慶応3年なのね。その子規が俳句の革新に乗り出したのは、明治20年代に新聞記者になってからのことなのね。
都区次:それまでの俳壇はどうだったのですか?
江戸璃:江戸時代の流れを受けていて、具体的には新時代の二十余年でさえ江戸時代以来の俳諧師(職業的な俳人)が相変わらず幅をきかせていたわけ。

子規に降る維新と桜吹雪かな 吉田ゆり

都区次:明治20年代になって新聞記者の子規が俳句革新に乗り出した、というのは分りましたが、今流にいう「抵抗勢力」としての旧派の連中が居て、俳句革新を成し遂げるには苦労があった、と思うのですが?
江戸璃:新時代の二十余年が何事もなく過ぎ、突然に近代俳句が子規一人の力で起こった訳ではないのよ。明治という時代を迎えて、維新というくらいだから、世の中の仕組みがすっかり改まり、生活や気持ちが変われば、俳諧にも当然これまでとは違ったものが求められるわよ。世の中の流れが「旧派への愛着」より「革新の待望」へと変わって当然よ。そんな時代背景だから旧派も俳句革新を「書生俳句」などと揶揄(やゆ)する程度で抵抗というほどの抵抗はしなかったと思うわよ。
都区次: ところで子規の母妹はどこかへ出掛けたのでしょうかね。
江戸璃: あの母親は育ちの良さそうな人だから、同郷の女性とお喋りをしないと腐っちゃう筈よ。これは絶対に日本橋浜町河岸の旧藩邸から水天宮・人形町へ遊びに行ってるわよ。

人形町甘酒横町










夕おぼろ社殿の朱(あけ)のやはらかし 長屋璃子(ながやるりこ)
甘味屋の灯のおぼろに誘はれて     山尾かづひろ