2013年5月19日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(124)

山手線・日暮里(その24)
根岸(上根岸82番地の家⑨「子規庵」)
文:山尾かづひろ 

明治の六郷鉄橋(多摩川)









都区次(とくじ):前回は 明治27年の7月に新聞『小日本』は廃刊してしまいます。それで子規はどうしたか?ということでしたね。

写生を試みる日々ソーダ水 畑中あや子

江戸璃(えどり): 俳句は再び新聞『日本』の方へ掲載することになったけれど、日清戦争開戦前夜で、記事が戦争一色になり、子規の専門の文学関係の記事などはほとんど掲載されなくなって、子規は暇になったので中村不折に習った写生の手法を俳句の上で実践しようと試みたのよ。毎日のように手帳一冊と鉛筆を携えて郊外散歩に出掛けたのよ。
都区次: 郊外散歩と言っても、どの辺りへ行ったのですか?
江戸璃: 主として根岸の郊外だけど、明治27年の秋の郊外散歩として新聞『日本』の11月4、5日に「間遊半日」を掲載してるわね。それによると、新橋から汽車に乗り、川崎に下車して川崎大師に向って歩いたわね。大師堂から引き返し、六郷橋(多摩川)を渡って六郷村(現大田区)に入っているわね。

並松や根はむしられて蔦紅葉
晩稲(おくて)刈る東海道の日和かな
街道を尻に稲こく女かな
脛(すね)に立つ水田の晩稲刈る日かな

などと子規は写生句を始め、

旗一本菊一鉢の小家かな
日あたりや綿も干し猫も寝る戸口

という俳句を残こして村を出てるわね。この後の子規の身の振り方は次回で話すわね。私達は、今日は日暮里からまた子規ゆかりの浅草へ行かない?今日は三社祭だから見物がてら昼ごはんを食べましょうよ。

浅草の三社祭









短夜や祭好きなる漢達     長屋璃子(ながやるりこ)
担ぎ手の出番待つ間の缶ビール 山尾かづひろ