2013年6月23日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(129)

山手線・日暮里(その29)
根岸(上根岸82番地の家⑭「子規庵」)
文:山尾かづひろ 

丁汝昌













都区次(とくじ): 子規は明治28年3月3日に従軍のために広島入りしていますが、日清戦争は休戦状態になっていますが、どういう動きがあったのですか?

いくさ見ぬ子規の嘆きや夏帽子 小熊秀子

江戸璃(えどり):当時、制海権を握ることが勝敗の鍵でね。清国の海軍はドイツ製の技術の粋を集めた最新・最強の軍艦「定遠」「鎮遠」を持っていてね、欧米の観戦武官は日本海軍に火力の点で勝ち目はないと見ていたのね。清国の火力は大口径砲にあったのよね。日本も「定遠」「鎮遠」に対抗上、フランスに「松島」「橋立」「厳島」を急きょ発注したのよ。
都区次:何でフランスだったのですか?
江戸璃:限られた金と技術力でドイツ製の「定遠」「鎮遠」に対抗するには科学力だ。19世紀までフランスは科学技術先進国だったからなのよ。フランスの著名な軍艦設計技師ベルタンの意見も聞いたのだけれど、これはもう「定遠」「鎮遠」との決戦兵器でね、「定遠」の船体の半分の排水量4千トンの船体に「定遠」の主砲30センチより大きい32.5センチの主砲を据えたのよ。ところがこれがとんだシロモノで、主砲が大きすぎて横に向けると船体が傾いてしまう。発射すると船首が廻ってしまい。そのたびにいちいち舵を切り直さないと転覆しかねない。
都区次:それでは主砲は撃てないじゃないですか?
江戸璃:明治27年9月17日の黄海海戦では主砲は13発しか撃てなくても、これは正解だったのよ。その代わり副砲の速射砲をガンガン撃って、巨艦「定遠」「鎮遠」以外の清国軍艦を叩きのめしたのよ。ジャブを浴びせ切ったわけよね。他の艦が沈んでしまえば、巨艦が残っていても手足をもがれた獣のようなものよ。清国海軍は戦意を失って威海衛軍港へ退却しっちゃったのよ。その際「鎮遠」は威海衛の沖で擱座。一方、「定遠」は無傷だったから、日本に脅威は残っていたわね。それで日本海軍は明治28年2月5日未明に威海衛軍港を水雷艇で魚雷攻撃、「定遠」を撃破。2月12日には清国艦隊が白幡を掲げて降伏文書を出した事で休戦状態に入ったのよ。また、これはそのときの時代背景を表しているのだけれど、その前夜に清国海軍の提督・丁汝昌(ていじょしょう)が服毒自殺を図っていたのよ。
都区次:服毒自殺!
江戸璃:そのときの清国王朝の実権は西太后(せいたいごう)が握っていてね、丁汝昌も生きていたら西太后にどんな酷い殺され方をされたか分らないわよ。だったら服毒自殺だ、という選択だったのじゃないの?
都区次:この一連の話は相当お詳しいのですが、江戸璃さんがお調べになったのですか?
江戸璃:この休戦に至るまでの話は子規が大陸へ出立する3日まえの明治28年4月7日付の五百木瓢亭(いおきひょうてい)宛の手紙から拾ったのよ。子規も従軍記者として出立するにあたっては事前調査をしていたのでしょうね。
都区次: ところで今日は日暮里からどこへ行きますか?
江戸璃:不忍池で紫陽花を見てみたいわね。

西太后













あぢさゐの丈の風あり池の端  長屋璃子(ながやるりこ)
大粒の雨に打たるる四葩かな  山尾かづひろ