2013年6月30日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(130)

山手線・日暮里(その30)
根岸(上根岸82番地の家⑮「子規庵」)
文:山尾かづひろ 

宇垣陸相













都区次(とくじ): 休戦になって、子規は従軍記者としての活動をどのようにしたのか?というのが気になるところですが?

病状悪化の子規夏はじめ 大森久実

江戸璃(えどり): 当時はまだ速報のメデイアが未発達でね、従軍記者の報告とそれを元にした錦絵や版画で細かなことは伝えていてね。内容も自ずとオーバーとなり、連戦連勝の大活劇となって国内は沸き返っちゃったのよ。ところが休戦となったら、そんな大活劇なんていうものは無いわよね。軍の報道の方も休戦となって、分ってくる戦死者とか負傷兵とかの事は知られたくない訳よ。子規と一緒に大陸に行った東京日日新聞の従軍記者・黒田甲子郎(こうしろう)によると「担当将校は報道ということに何の価値も認めぬどころか、軍状をスパイされるぐらいに考えていた。だから一椀の食も、一枚の毛布も与えなかった」としていたわね。さらに従軍記者が通信を出そうと思っても、便があるのに持って行ってくれない。しかたがないので、何里も歩いて野戦郵便局へ出しに行く。そこで今度は「あけてみろ!」と言われる。そんな状況なので黒田は子規に極力帰国を勧めたそうよ。
都区次:本当なのですか?
江戸璃: これにはウラを取ったような話があってね。後年、新聞記者が集まって思い出話をした時、黒田は、宇垣一成陸相の前で「子規を殺したのは軍だ」と大声叱咤したけれど、宇垣陸相は何も言わなかったそうよ。松山生れで、軍人出身の作家・桜井忠温(ただよし)は昭和26年、松山で「正岡従軍記者」と題する講演を行い、桜井はそこで黒田から聞いた話を紹介し「子規が35歳で倒れた原因は、黒田の言うとおり、軍が作ったのである」と述べたのよ。
都区次:ところで今日は日暮里からどこへ行きますか?
江戸璃:今日は大祓(おおはらえ)だから、子規ゆかりの浅草の浅草神社の夏越の祓へ行ってみない?

夏越の祓











右足を先に茅の輪をくぐりけり  長屋璃子(ながやるりこ)
曇り日の昼を灯して茅の輪かな  山尾かづひろ