2013年8月4日日曜日

尾鷲歳時記(132)

涼しくなる話
内山思考

若者ら幽霊谷へ蛍見に  思考



幽霊は苦手だが、大の妖怪ファン












幽霊は夏の季語だという。昔の季寄せを探せば載っているかも知れないが、なにせ暑いから、二階の書架まで行く気がしない。百物語が納涼を目的として行われていたのは聞いたことがある。一人一話が三分として5、6時間はかかる計算だから大変である。なかなか骨の折れるイベントだったと思われる。しかし、幽霊はアトラクションではないので、季節を限定されるのは彼女ら(彼ら)も心外なのではなかろうか。

僕は怖い話はあまり好きではないので、なるべくそんな本も映像も見ないようにしている。人がいる限り幽霊の存在はいわば不易だが、時代の文化(流行)とも切り離せない。例えば車に乗り込み(運転はしない?)、テレビから這い出し、ケータイを利用するといった具合である。その内に人類とともに宇宙に進出し、火星に現れたりする可能性も大だ。これは決して茶化しているわけではないので、「バカにしてるのか」と抗議に来ないでいただきたい。

先日、あるお寺の方と食事中に怪奇談になり、僕が持ちネタを二つほど披露したあと、そのお坊さんが修行中の話をしてくれた。仲間と二人、自動車で知らない土地を走っているうちに道に迷い、何気なく止まった所がある慰霊碑の前だったそうである。それはよく知られた事件の犠牲者のためのものだった。車から降り、手を合わせて帰ろうとするとどこからともなく、「お坊さん、お坊さん」と呼ぶ声。けれどもあたりに人の気配は無い。

炭焼窯も顔に見える

不思議に思いながら車に乗り込んだ時、もう一人が「あれ、何で俺達が僧侶だとわかったんだ?」と言った。それもそのはず、二人は当時流行のスタイルで、しかも帽子を被っていたのだ。一瞬の後、彼は思い切りアクセルを踏んでその場を離れたという。で帰ってから父親(ご住職)に報告したら「バカモノ!、それだったら何故もう一度慰霊碑へ戻ってお経をあげて来なかったのだ」と散々にお目玉を食らったのだそうだ。