2013年11月10日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(149)

山手線・日暮里(その49)
根岸(上根岸82番地の家(33)「子規庵」)
文:山尾かづひろ 

西日暮里駅










都区次(とくじ): 虚子は子規よりの後継者依頼の申し出を断ったのですが、その理由が「自分は名誉心を起こすことは好まない」というものでしたが、子規は虚子に対し後継者となる上は「学問せよ、野心、名誉心を持て」と言ったので、そのような断り方になったのでしょうが、本当の理由は別にあったような気がするのですが?

余りにも大きな負担冬木立 小熊秀子

江戸璃(えどり): この子規庵から道灌山へ行って、話をするわね。日暮里から西日暮里まで山手線に乗るわよ。
【道灌山にて】
江戸璃:西日暮里駅を出たら道灌山通りを左に行って歩道橋の端の85段の鉄階段を上って今の道灌山の西日暮里公園で話をするわよ。この時期の虚子は前年の明治27年に仙台の第二高等学校を中退し、上京していて、子規の生活をよく見ていた筈なのよ。この頃の子規はライフワークとも言える「俳句分類」に没頭しているときだったのよ。この「俳句分類」は明治24年の冬から始めたもので、古今の俳句を四季、事物、表現の形式、句調などによって分類して半紙に書いていったもので、その半紙を綴じたノートが明治26年には子規の身長の高さになっていたのよ。ちなみに子規の身長は1メートル63センチだったのよ。子規自身も「無窮(むきゅう)に完結せざらんと欲するものなり」と言っていて、たとえ長生きしたとしても終りのない作業だったのよ。無窮に完結しない仕事を持ち、それをこつこつと続けることを子規は自分に課していたのよ。 そんなとき虚子は子規の後継者にと言われて、現実に何の仕事を引き継ぐのかとなれば、すぐに頭に浮かぶのは「俳句分類」よね。都区次さんはどう思う?
都区次: 地味で大変そうで、先の見えないような仕事ですね。こんな仕事の後継者になったら、他に何も出来なくなっちゃいますね。当然、何か理由をつけて断りますね。
江戸璃: そうでしょう!それとこの年に子規は新聞『日本』に「俳諧大要」の連載をスタートさせていて虚子もそれを見ていた筈なのよ。それは次のような一節から始まったのよ。「俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり。即ち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌も皆同一の標準を以って論評し得べし。」となっていて、これを引き継ぐのは大変な苦労だと思っても不自然じゃないわよね。
都区次:ところで今日はどうしますか?
江戸璃:西日暮里公園への階段が大変で喉が渇いちゃった。西日暮里のワタミでビールを飲んでいこうよ。

西日暮里公園











山茶花の垣根に隣るブロック塀 長屋璃子(ながやるりこ)
山茶花や浅草望む午後なりぬ  山尾かづひろ