2014年5月4日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(174)

山手線・田町(その5)
文:山尾かづひろ 

長松寺山門











都区次(とくじ):前回は三田台地の玉鳳寺(ぎょくほうじ)でしたが、今日はどこへ案内してくれますか?

徂徠墓めまとひを打ち払ひつつ  佐藤照美
 
江戸璃(えどり):やはり大矢白星師に案内してもらった三田台地で、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の墓のある長松寺へ行くわよ。白星師に14年前に案内されたときには幽霊坂上の玉鳳寺から近くのマンションの通路を抜けて真下の長松寺の境内に出ちゃったのよ。でも今は防犯上なのか通路下に扉が出来ちゃって、とても白星師みたいに抜ける度胸なんか出ないわよ。遠回りになるけれどまた幽霊坂を降りて行くわよ。浄土宗の長松寺は、はじめは八丁堀にあって大円寺という名称だったけれど、その後現在名に改称して寛永12年(1635)にこの地へ移ってきたのよ。荻生徂徠の父の方庵(ほうあん)は五大将軍徳川綱吉に仕える医師だったけれど、徂徠が14歳のときに咎を受け、江戸を追放になり、上総本納村(現・千葉県茂原市)に移り住んで徂徠は朱子学を修めたのよ。父が赦されると、徂徠は江戸に戻り、儒学の講釈をして暮らし、元禄9年(1969)31歳のときに徳川綱吉の側用人の柳沢吉保に引き立てられて、優れた理論家で、徳川吉宗や柳沢吉保の政治的な助言者になって、赤穂義士の討ち入り事件では切腹を主張し、幕府にその意見が入れられたことはよく知られているわね。
都区次:夕方になりましたが、今日はどうしますか?
江戸璃:慶応仲通りのイタリアンレストランのポルコロッソでワインを飲みたくなっちゃった。
都区次:いいですね。行きましょう。

荻生徂徠墓














朱子学に疎しと言へど清和かな  長屋璃子
画布負ひて美大学生街薄暑    山尾かづひろ