2014年5月25日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(177)

山手線・田町(その8)
文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし


泉岳寺山門










都区次(とくじ):前回は三田台地の魚籃寺(ぎょらんじ)でしたが、今日はどこへ案内してくれますか?

夾竹桃線香煙る泉岳寺 大森久実

江戸璃(えどり):やはり大矢白星師に案内してもらった三田台地で、泉岳寺へ行くわよ。魚籃坂から伊皿子坂(いさらござか)へ入るわよ。変った名前の坂だけれど明国人の伊皿子(いんべいす)が住んでいたことが坂の名の由来らしいのよね。いま伊皿子坂を下っているけれど、坂道の右側を見ると、路面より玄関先の地面が高い場所があるわね、あれは、むかし市電(都電)を敷くときに、電車が坂を上り易いように勾配を削った跡なのよ。さて、坂は突き当たって左へ出れば第一京浜、右は泉岳寺よ。ここで昔日の都電通りと別れて泉岳寺へ向うわよ。泉岳寺と言えば四十七士よね。余りにも有名な泉岳寺について私がお喋りすることもないわね。ただ、吉良邸討ち入りのあと、赤穂浪士一行は愛宕山下の青松寺へ赴いたけれど、かかわりを恐れた寺に断られて泉岳寺を目指したとのエピソードがあるらしいのよ。いずれにしても泉岳寺は四十七士で一躍名を挙げたのよ。「それまではただの寺なり泉岳寺」の古川柳がその間の消息を伝えているわね。それでは線香を買って赤穂四十七士の墓を拝んでゆきましょう。吉良邸へ討ち入ったのは四十七人だけど、墓は四十六しかないのよ。切腹しなかった寺坂吉右衛門は、石塔はあるけど墓はないのよ。寺坂は討ち入りのあと、事件の顚末を各所に報告する密命を帯びて姿を消して、八十三歳の天寿を全うしたのよ。麻布の曹渓寺に身を寄せた時期もあって、本当の墓は曹渓寺にあるのよ。もう一つ忍道喜剣と書かれた石塔があるけれど、これは同志の萱野三平の供養塔ということになっているわね。萱野は刃傷の一件を赤穂へ知らせた使者で、同志に加わりながら親の許しが得られず、忠と孝との板挟みになって、討ち入り以前に自決してしまったのよね。後に早野勘平として人形浄瑠璃や仮名手本忠臣蔵に登場するのは、皆さんご存知の通りよね。
都区次:夕方になりましたが、今日はどうしますか?
江戸璃:慶応仲通りのイタリアン酒場の「パスターヴオラ」の「イイダコとヤリイカのマリネ」でワインを飲みたくなっちゃった。
都区次:いいですね。行きましょう。
義士の墓















夾竹桃知るや萎るる日のあるを   長屋璃子
香煙やあぢさゐどれもうすみどり  山尾かづひろ