2014年8月31日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(191)

麻布十番(その3)
文:山尾かづひろ 

大石内蔵助













都区次(とくじ): 前回は麻布十番の賢崇寺でしたが、今日はどこですか?

花サビタ江戸の坂とて侮れず 大森久実

江戸璃(えどり):やはり13年ほど前に大矢白星師に連れて行ってもらった南部坂へ行くわよ。麻布十番から行くのでちょっと歩くわよ。
江戸璃:東京には江戸時代からの南部坂が二つあって、一つは①麻布の南部坂で、もう一つは②赤坂の南部坂なのよ。どちらの南部坂も名前の坂のそばに南部屋敷があったことね。赤坂の南部坂のほうが麻布の南部坂よりも古いのよ。

①麻布の南部坂は麻布盛岡町、現在の住所で南麻布四丁目と五丁目の境にあり、有栖川宮記念公園の南外囲に沿って東に上る坂なのよ。坂上にはドイツ大使館があるわよ。坂の名前は、江戸時代、現在の有栖川宮記念公園の場所に奥州・南部藩の屋敷があったことに由来しているのよ。

②赤坂の南部坂は赤坂福吉町と麻布今井町との境、現在の住所で赤坂二丁目と六本木二丁目の境界をアメリカ大使館宿舎わきを西北に上り、左折してさらに氷川神社のほうに上る坂なのよ。坂の名前は、江戸時代初期、近隣の氷川神社の辺りに南部家中屋敷があったことに因むのよ。この坂は急峻であることから、後には「難歩坂(なんぶざか)」と書き表されることもあった。また、「なんぽ坂」、「赤坂」とも呼ばれたのよ。

この坂の由来となった南部家中屋敷は明暦2年(1656年)、赤穂藩浅野家との間で屋敷の取り替えが行われたのね。この際に南部家は現在の南麻布、有栖川宮記念公園のある場所へと移動、移動先でも「南部坂」が生まれたために同名の坂が2ヶ所存在することとなったわけ。南部坂が「難歩坂」「なんぽ坂」などと書き換え、言い換えられるようになったのは、「南部屋敷」がこの坂の周囲から移転してしまったことによるのよ。この坂は、『忠臣蔵』の名場面のひとつ、大石内蔵助が瑶泉院に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台としても知られているわね。瑤泉院は浅野内匠頭の切腹以降、実家の三次藩下屋敷に引き取られていたけれど、この屋敷は赤坂・南部坂の頂上付近、現在の氷川神社境内にあったのよ。現在、この坂の南西側はアメリカ大使館の官舎(宿舎)になっており、通常は立ち入りが出来ないわね。

瑤泉院















花芒泪の話残る坂       長屋璃子
切り岸に風ひとつあり花芒  山尾かづひろ