2014年9月28日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(195)

谷中(その4)
文:山尾かづひろ 

全生庵









都区次(とくじ): 前回は谷中の西光寺でしたが、今回はどこですか?

色鳥の色こぼすなり鉄舟墓  佐藤照美

江戸璃(えどり): 今回も大矢白星師が8月のお盆休みに谷中を歩いた分のトレースの続きなのよ。というわけで谷中の全生庵へ行くわよ。 全生庵と言えば山岡鉄舟の墓があるので有名よね。
都区次:先日の9月7日には高橋泥舟のある谷中の大雄寺へ行ったので、幕末三舟の二人まで訪ねたことになりますね。
江戸璃
鉄舟は天保7年(1836)に蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として江戸で生れてね、16歳のときに講武所に入って、千葉周作らに剣術を習い、槍術を山岡静山に習ってね、静山急死のあと静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚し、山岡家の婿養子になったのよ。安政3年(1856)剣道の技倆抜群により、講武所の世話役となったのね。

この頃、中西派一刀流の浅利又七郎と試合をするが勝てず弟子入りしたのよ。この頃から剣への求道が一段と厳しくなってね。禅にも参じて剣禅一如の追求を始めるようになったのよ。元来仏法嫌いであったらしいけれど、高橋泥舟の勧めもあり、自分でも感ずるところがあり始めたというのね。禅は芝村の名刹である長徳寺の住職である順翁について学んだのよ。

慶応4年(1868))、精鋭隊歩兵頭格となる。江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府に辿り着き、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と面会したのよ。これは2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していたのね。海舟はこのような状況を伝えるため、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送ろうとし、高橋泥舟を使者にしようとしたけれど、泥舟は慶喜警護から離れることができなかったよ。

そこで、鉄舟に白羽の矢が立ったわけ。西郷との面会の当日、刀がないほど困窮していた鉄舟は親友の関口良輔に大小を借りて官軍の陣営に向かったそうよ。また、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったと言われているわね。3月9日、益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼んだのよ。

これによって江戸無血開城がすみやかにおこなわれたわけ。維新後は西郷のたっての依頼により、明治5年(1872)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えたのよ。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873)に皇居仮宮殿が炎上した際、新宿淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られているのよ。宮内大丞、宮内少輔を歴任してね。明治15年(1882)、西郷との約束どおり辞職。明治20年、功績により子爵に叙されたのよ。

明治16年(1883)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため谷中に普門山全生庵を建立したのよ。明治21年(18888)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌であったそうね。享年53。全生庵に眠る。戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。禅道の弟子に三遊亭圓朝がいて全生庵に墓があるわよ。書は人から頼まれれば断らずに書いたので各地で鉄舟の書が散見され、一説には生涯に100万枚書したとも言われているそうよ。

山岡鉄舟の墓









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