2014年10月19日日曜日

尾鷲歳時記(195)

晩秋の橋を渡る 
内山思考 

直線を投げかけている芒かな 思考

自宅前の路地













相変わらず尾鷲と名古屋と桑名を行ったり来たりしている。つまり自宅と、恵子の入院している病院と下宿替わりの姉の家である。恵子はヘルペスではなくただ身体が痛いという自覚症状だけで、担当医も今のところ原因がわからないそうだ。移植した腎臓は元気に働いているというのに一体どうしたことだろう。僕は洗濯と買い物などの雑用以外は、個室の南窓際のソファーに座り、向かい合わせにしたパイプ椅子に脚を投げ出して、一日中、本を読んだり原稿をコチコチ打ったりしている。

テレビ(音量小)はついたりついてなかったり。部屋には医師や看護師さんの他に、長いホースの掃除機を操るお兄さん、モップかけのおじさん、洗面所トイレ掃除、お茶入れのお姉さんおばさんたちがたびたびやってくる。医師看護師以外はみな伏し目がちにもくもくと自らの仕事を片付け、一礼して去ってゆく。

内山夫婦は、2月に沖縄から帰って3月の検査入院から半年間の大部分はこの病棟にいる。だから顔見知りも何人かいて、たまにこちらから話しかけることもある。「いい天気やね」「台風大丈夫だった?」「日が短くなってきましたね」などなど。二言三言交わす内に表情が柔和になるのを見ながら、僕はその人の日常の1コマに触れたことを喜ばしく思い、時には、この人はどんな人生を送って来たのかな、と余計な想像を膨らませたりもする。

林檎のある窓辺
やがて4時。そろそろ帰宅(桑名へ)時間だ。立ち上がってスクワットを30回。座りっぱなしだから、これをしないと全身の気が巡らない。それから恵子が調子のいい時は、1日分の原稿にざっと目を通して貰いながら、大きな東向きの窓の外、白い街の凸凹に陰が染みてゆくのを眺める。この日曜日は「風来」の句会だし、次の土曜日は伊丹市の柿衞文庫まで足を延ばして「北山河、人と作品」を語る予定。思考によって伸び縮みする時間と空間、僕と恵子は今、目に見えない大きな橋を渡っているところである。