2015年3月22日日曜日

尾鷲歳時記(217)

春や春
内山思考 

春の山どこを押しても経穴(ツボ)なりけり  思考

この一枚にもウグイスの声が








我が家の二階の物干しルームは南向きで、正面右の間近に寺山が迫り、左側の三分の一ほどが尾鷲港方面へ空間を開けている。海は見えないが毎年八月第一土曜の港祭りの夜は、誰にも邪魔されず打ち上げ花火を存分に満喫する事が出来る。直線距離にして1キロあるかないか、隣の熊野市の大花火に比べて規模はかなり小さいけれど、それでも尺玉が空いっぱいに咲き広がった時などは、ドシンという地響きと共にビリビリと家鳴りがして思わず感嘆の声を発してしまう。恵子は必ず手を叩く。

まあそんな場所に住んでいるから、四季の風も色も音もいち早く感じ取れるわけで、2、3日前、いつものように洗濯物を干していると、「ホーホケキョ」と心地良い鳴き声が聞こえて来た。ああウグイスやなあ、「ホーホケキョ」、もうそんな時期になったんや、「ホーホケキョ」「ホーホケキョ」、春やなあ、「ホケキョーケキョ」。毎朝氷が張る訳でもなく、雪国に比べれば大人しい冬かも知れないけれど冬は冬、春を待つ気持ちはたぶん全国共通だろう。

日々に光量が多くなり、木々や野の草の芽吹く香が漂い始めると、思考の芯もほぐれるというもの。そこへ春告げ鳥の美声の独り占めと来たらもう贅沢この上ない話である。しばらくウットリしてから階下におりて縁側のガラス戸を開けると、今度は猫の額級の狭庭の沈丁花が、こちらは如何とばかりに芳香の大奮発で嗅覚を刺激、その間も天上からは「ホーホケキョ」のエンドレス、生きている楽しみは物欲性欲数々あれど、こんなひとときもなかなかどうして捨てがたいものである。

右に牡丹、
奥に沈丁花
視線を移せば、こないだまで茶色い棒のようだった牡丹の幹にもモヤモヤと芽が萌えて、そのひとところに固まって見える部分がある。「もしや」 下駄を突っかけて近づき鼻息も荒く凝視すると、嬉しやな牡丹のツボミではないか。恵子も今年は牡丹に会えるなと微笑めばまたまた空から「ホーホケキョ」。