2015年5月24日日曜日

俳枕 江戸から東京へ(229)

田原町(その4)
文:山尾かづひろ 


源空寺










江戸璃(えどり):三社祭が済むと一気に夏らしくなるわね。

剃りあとの顎撫づる指青嵐    土屋俊子
豆飯をクレオパトラも食べしとか 小倉修子
一と掻きの波紋の中の水馬    寺田啓子
鈴蘭の道の札幌官舎かな     梅山勇吉

都区次(とくじ):20年ほど前に江戸璃さんが大矢白星師に案内してもらった田原町のコースを私と歩いてくれるという事で、(その1)は本法寺、(その2)は聖徳寺、(その3)はかっぱ寺の曹源寺でしたが今回はどこへ案内してくれますか?
江戸璃(えどり):源空寺へ行くわよ。曹源寺から源空寺へは南西へ200メートルも歩けば行けるわよ。源空寺は浄土宗増上寺の末寺でね。寺伝によれば、円誉道阿が天正十八年(1590)湯島(現文京区)に草庵を結び、多くの信者を集めたことに始まったそうよ。秀吉により関東へ移封された徳川家康も道阿に深く帰依したのよ。関ヶ原の戦いのあと征夷大将軍となった家康は江戸に幕府を開き、慶長九年(1604)草庵の地に寺院を開かせ、開祖法然坊源空の名にちなみ「源空寺」と称させたそうよ。二世専誉直爾のとき、明暦三年(1657)の大火に遭って類焼し、当地に移転してきたのよ。墓地には伊能忠敬の墓(日本国史跡)があって、伊能忠敬は下総国佐原の名主・酒造家に生まれ、高橋至時に天文学・測量学を学び、寛政12年(1800)から全国各地を測量、「大日本沿海與地全図」を完成させたのよ。次に高橋至時の墓(日本国史跡)があって、高橋至時は高橋景保の父で、寛政改歴の中心となった天文方でね。高橋景保は、天文学者・洋学者で、天文方・書物奉行を勤めたのだけれど、文政11年(1828)シーボルトに日本地図を贈ったことが発覚し、翌年獄死しちゃったのよ(シーボルト事件)。次に谷文晁の墓(東京都旧跡)があって、谷文晁は下谷根岸の生まれで、狩野派や南画・洋画などに学び、文人画を大成した江戸画壇の重鎮なのよ。次に幡随院長兵衛の墓(東京都旧跡)があって、幡随院長兵衛は町奴の頭目として、旗本奴の横暴に立ち向かって亡くなり、江戸っ子のヒーローとして歌舞伎狂言にも取り上げられているわね。また、銅鐘(台東区登載化財)は寛永13年(1636)に源空寺初代住職の道阿霊門上人が、3代将軍徳川家光の要請をうけ徳川家康・秀忠の菩提を弔うために鋳造させたもので、作者は椎名勝十郎義定という人物なのよ。

源空寺の鐘













明易の寺に眠れる地図の祖(おや) 長屋璃子
薫風を伊能忠敬墓詣        山尾かづひろ